Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

読み手を意識した文章の書き方とは?

論文は、読んでもらうもの、読んでもらって評価してもらって、一定の価値があると判断してもらってはじめて公表されるというものなので、読んでもらわないといけない。ここに書いているような雑文ではないのよね。

 

読者を想定すること、については、いわゆる文章論などで星の数ほどいろいろな議論がされていると思う。自分のような素人にちょっとけがはえたかも、みたいな人間でも、気をつけるべきことは

 

1 読者が理解に必要な情報が過不足なく提供されているか

2 読者が情報を充分得ているとして、その情報を使えるような順序で論が展開されているか。具体的には、科学論文であれば大きな話から小さな話へと無理なく誘導できているか

3 提供する情報のレベルがそろっているか。一部だけ極端に細かく、一部が極端に洗い、ということがないか

 

だろうか。これ、書くのは簡単だが、たとえば1の「過不足なく」をどう判断するか、それだけでもう一生かかりそうな問題だ。「火星人だったらどうですか」という学生さんが受けた質問は30年近くたった今でも頭の中でぐるぐる回ってる。火星のことを対比して考える必要性がないとどうして言い切れるのか、などなど。

3も難しい。というか絶対にうまく最初からは行かないので、書けることを書く。書けるところは無駄に細かい。書けないところは本当に書けない。そこでレベルを合わせてゆく。多くの場合細かいところは付録に移動される。書けないという場合、多くの場合は知識不足なので、文献をひたすら調べる。読み込む。それで僕らの場合かなりなんとかなる。なんとかならないところが本当はキモで、そのキモは書いた経験が積み重なればなるほど、読むときに目に飛び込んでくる。ここ、ギリギリ書いてるな、とか、ここ、leapしたな、みたいな。ここが最初に書いたところにつながるわけだけれども。

 

でも、これらを考え続けて、自分なりの答えを出すしかない。線をしっかり引くしかない。その線が間違っていたら直す、読者と、査読者とちがっていて、違っていることに価値を見いだせるのであれば訂正する。訂正することでほぼすべての場合で文章はよくなると思う。だから訂正する。筋が通っていれば。

 

訂正するために、しっかり自分の筋を整えよう。そこが曖昧なら、批評を受け入れて訂正することがもっとしんどくなる。筋が整えば、受け入れられる点も、受け入れられない点もはっきりする。批評がケチではなくなる。そこだ。だから、自分がしっかりしないと訂正はできないのよ、というごく当たり前のところに戻る。これは、文章に限ったことじゃない。と、メタで考えることができるようになるはず。

 

とかとかね。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/