Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

形を持たなかった言葉の断片

40分ある。ちょっと深呼吸。

 

このところ、いろいろな作家さんのトークイベントをオンラインで聞いている。

 

もともと、絵画にしろ、音楽にしろ、文章にしろ、その作者の個人の歴史的なものなどは、敢えて見たくない、それよりは目の前のものがすべてでしょ?という気持ちでいた。好みがそうだった。

 

しかし、人生折り返しをとうに過ぎて、そしてコロナの数少ない恩恵であるオンラインでのイベントに慣れてきたことから、ちょっと、聞いてみよっか、という気になったのでした。

 

最初は、鳥羽和久さんの、何かのイベント配信を聞かせてもらったことだった。おそらく最初の最初は、鳥羽和久さん x 村井理子さんの対談だったんだと思う。そのあと、おおたとしまさ『学校に染まるな!』刊行記念 & 鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』増刷記念トークだったり、本とこらじおだったり。いまも 山内朋樹『庭のかたちが生まれるとき』『デレク・ジャーマンの庭』W刊行記念トーク を申し込んだところ(なにせ、この「庭のかたち~」は目の前にまだ読めないまま詰まれているし、林学科にいたころ、庭園の授業かなり面白かったし、この本自体、先日まで読んでいた千葉雅也さんの「センスの哲学」でも推薦されていたし、対談のもうお一方の平倉圭さんについても「センスの哲学」の中で書かれていたし、どんどんと、すごい人につながってゆくのが楽しくてたまらない。

 

まだ加筆できるけれど、先に言いたいことを。

 

文章は、書かれてしまった途端に、形がきゅっと整ってしまって、どうしても固まってしまう。そしてその固さが、堅さとなって、重みを増して、ドスンと自分に入ってくる。でも、あまりにも素直に入ってきてしまって、自分のようなぼんやりとした読者にとっては、どのように読んだらいいのか、正直不安なままだ。正しく読めることなどない、正しく読むなんてない、とは、頭では理解しているものの、それでも、もう少し読み方が、深みが、わかっていないことが文脈に、文体にあるのではないかと探っては疲弊する。

 

そんな中、では、実際の言葉の使い手の皆さんがどのように話しているかを聞くと、正直、皆さん、本当に存在したんだ、とまず正直思うし(神様なんじゃないかと正直思いながら読んでいる野で)、そのあとで、ああ、この人たちですら、こんなに必死に(しかし丁寧に)言葉を選んでいるのだという、ごくごく当たり前のことに驚くのです。戻ったり進んだり、ちょっと脱線どころかかなり脱線したりと、文章とは違う側面、でありながら、やはり違わない側面、というのを感じることができる。これは、とても大事な経験として響いているのです。生で見に行くことは現状だといろいろと厳しいのだけれど、オンラインだけでも、たとえば選ぶ言葉の選び方、迷い方、そして自分にとって一番大事なことなんだけれど、捨て方、何を捨てたかが、なんとなく想像できるようになる(合っているかどうかは問題ではなく、言葉を捨てて、選んでいるという当たり前のことから、何をどう捨てたかということに思いを馳せることができる)のでした。

 

これは、文体という得体の知れないものを感じた、あの高校の頃の読書体験に匹敵するくらい、自分の中では大きなものでした。もしかしたら、今、小林秀雄の講演録音を聞いたら、さらに衝撃を受けるのかもしれないけれど、動画で配信されるその中に含まれる雰囲気とか、ノンバーバルコミュニケーション(適切な日本語なんかあると思うのだけれど、、、)が大きいのかもしれない。とにかく、身近な存在と感じつつ、とてつもなく遠い存在と感じる、アンビバレンツな存在として感じられるトークイベントに今、自分はとても、なんというか、快活になるための種をもらっている。

 

すごいと思う人が、すごいと思う人と言葉を交わしながら、その言葉、そして使われなかった言葉から、1つどころか2つ3つ、次元を増やした言葉の空間を作り出してゆく。それが、それぞれの著作の一部分とさらっと柔らかく連関しながら、意味の階層を何段階にも作り上げてゆく。勝手な想像だけれど、勝手だからこそ大事な時間であるし、それこそが読書の大事なところなのだと思う。

 

休符のもつ意味を教えてくれた武満徹さんの著作を、そろそろ読み直しても良い頃なんだと思う。ないものが創り出すリズム、ないものがなければリズムが創り出せない、というのは本当にいろいろな意味を含んでいるよなぁ。

 

時間切れなので、現実に戻ります!2200、あともうちょっと!

 

 

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/