Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

物と者、言葉のインタープレイ: 山内朋樹『庭のかたちが生まれるとき』『デレク・ジャーマンの庭』W刊行記念トーク

雪山いいなぁ、、楽しんでね、、、!!!

こちらは、頑張ってお仕事しました。

 

 

そのご褒美で、アーカイブを見ることに。

 

山内朋樹『庭のかたちが生まれるとき』『デレク・ジャーマンの庭』W刊行記念トーク

https://peatix.com/event/3936838/view

 

 

山内朋樹『庭のかたちが生まれるとき』については

 

keikoba.hatenablog.com

keikoba.hatenablog.com

でいろいろ考えているとおりであります。

 

細かいことは書けないけれども、、、、、ものすごく充実している、言葉が立ち上がる空間だった。これはすごい。これを見たあとだと、読み込み方が全然深まりそう。

 

 

まず、平倉圭さんの本の読み方、評し方がとても素晴らしくて感動してしまった。褒めるところの褒め方にしろ指摘の仕方にしても、その掘り下げ方にしても(落とし方にしても)、本当に真摯に正直に対峙している人なんだなということがわかるやりとりだった。こういう「人となり」がにじみ出る媒体として、やっぱりトークイベントというのはかなりいいもんなんだと思う(もちろん、うまくフィットしないときもあるわけで)。

 

 

石を置いていく、そこにリズムがあること、そのこと自体の一般性について言及があったけれど、本当にそうだとおもう。石が音でも色でも生徒でも敵対する相手でも、すべておなじといってもいいとおもう。無論、単純に例えて言い換えてOK、なんてことはやり過ぎだけれども、どこまで ひと と もの を観るか、だとおもう。ああ、そんなことをお話しされてるや。

 

 

ストレートな問いが生まれ続けること、一方で強い制約条件としての先行研究の存在をどう考えるか、というところ、その話はとても興味深かった。研究者だからって、先行研究から離れて、100%純粋に自分の思考をすすめるのでいいと素直に思った。先行研究のことは考えなかったなぁ。

 

生きている物/者を相手にしている、その生きていると言うことが大事な要素だったんだなぁとお話を聞きながら思い直し、時間は違えど実際に観た庭のことを思い出していた。

 

「概念を作るスピードが速い」という平倉さんの評はすごい。なんと的確なんだろう。

 

体の使い方というか、所作一つで、能力がわかってしまうというのは自分たちの世界でもむちゃくちゃあるなぁ、、、そして、石を歩かせる親方の、あの動画、すごい、、、、

 

偸む、というとても重要なキーワードについての議論も面白かった。偸むって、ネガティブ・ケイパビリティにつながるってことではないか、とも。その先か。「偸み」は最終局面、という指摘もすごいなぁ。

 

抽象的に上に上げて、それでとりあえず、ってのじゃないよね。だんだんと合わなくなってくることにどう対応してゆくのか、存在しない設計図なんてやっぱりないこと、実際の現場での係争状態、正しいところに落ち着けようとしない、ぎりぎり成立するところ、その「ものを扱っている人にとっては当たり前のこと」というのを様々に教えてもらえた本であったと改めて思った。

 

 

錨の引力、石でも、さっと引いた線でも、そのことを指摘している部分はたしかに素晴らしい。

 

 

「雑話的批評」の説明を聞いて、ああ、まさに、この庭のかたちをつくっていくことって、われわれだと、研究を立ち上げて論文にしてゆくことそのものだなぁと。とりあえずのかたち、の吸引力。消えてしまう運命の「雑話的批評」。

 

 

こういう、ある意味文化人類学の構造解析的なアプローチにおいて、どこまでその「場」の専門的な知識が必要か、あるべきかない方がいいのか、という問題はあるのだと思うけど、今回のこの作品は、絶妙な距離を保ち続けていることが、素晴らしい結果に結びついているのだと思う。敢えて離れる、そのための知識、という感じ。そして、言葉の選び方についても、写真の選び方についても、定量的なところは置いておく、ということについて、自分の中で大事な例になったと思う。言い方難しいかもしれないけれども、定量的な側面が強いと、このような素晴らしい作品にはならないと思うのだよな、、、問いの立て方にしても、いろいろな側面でそう思う。

 

 

もう一度、例えば旅に出るときに読み直したい本だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/