Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

無数のほころびを見ることなしに見る:「庭のかたちが生まれるとき」(山内朋樹 著)


「庭のかたちが生まれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵」(山内朋樹 著)を読んだ。素晴らしかった。

 

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課題図書、そして来週末のトークイベントの予習として読み進めたのだけれど、あれやこれやと想像が膨らむ部分が多々ありながら、それでいて軽やかに読み通せた。庭園の本ではない。すべての「つくること」に対してどう考えるか、そのヒントが詰まった本だと思う。本当に読んで良かった。

 

自分は特にこの頃、メタ化、普遍化、一般化、というものに特にひかれているのを感じるのだけれど、なぜなのだろうか。それらが「理解すること」につながるのだとしても、なぜ理解するのか、したいのか。それが本能だからなんてごまかししか今のところできていない。役に立つなんて言葉はまっぴらだし。類似点を拾い上げてわかった気になるのも、もうさすがにあかんのだけれども(しかしやっぱりわかった感があって嬉しい)。そんなことをずっと考えている。

 

そんな中、本書で扱われる庭のかたち、なぜあれがあそこにあるのか、そしてなぜあれがあそこにないのか、という観察と思考は、庭という閉じていながら開いている空間にうごめく駆動力の構造解析、構造を解析しながらそれでこぼれ落ちるものを見てゆこうという営みなのだな、という印象を持ちつつ読み進めた。構造解析か!と言葉にたどり着いたら納得したけど、それまでは、とにかく面白いなぁ、とぼんやり進むだけだった。構造解析って言葉が頭に浮かんでから急にクリヤーに見えてきた気がする。

一つ一つ謎解きのように構造が明らかになってゆくのだけれど、以前、プロが集まって即興でどんどんと作曲していく様子をclubhouseで聞かせてもらったことがあるけれど、あの感じが、あの高揚感が至るところでよみがえった。また、「重心」とか「流れ」とかの言葉が出てくるのだけれど、これらはサッカーでも学術論文のイントロでも、音楽でも、常にこれらの概念は正直「使い勝手がいい」「普遍的な感じがする」言葉と思っていて、それらがやはり出てきて嬉しい。

 

聞こえない主旋律が鳴り続けながらも、そこから外した音の流れを仮に作ってゆく、という重奏性(重層性)の豊かさ。庭ならば石や樹木や、楽曲ならば各楽器が、演奏家が、共同作業ならば物と者とが相互に呼応しながら、(町屋良平さんの)「われわれ」的に、聞こえないけれど常に鳴っている主旋律とリズムを意識しつつも意識しないように外れるように進んでいって、その進みによってまた主旋律とリズムがすこしズレて、そのズレが呼応をより強く促してゆく、、、その結果、うねりとしてのグルーブが生まれ、個々の総和が全体を大きく超えてゆく。これは、またもや、サッカーでも絵画でも、小説でももちろん音楽でも、そして庭園でも、はたまた会社組織でも、みんな同じことなのだろうと思う。と帯を見たら千葉雅也さんが「絵画の話でもあるし、音楽でも料理でも、会話術でもビジネス術でもあるからだ」と書かれていた。

石を置く、といえば囲碁だけれど、その打ち方にももちろん通ずるところは大きいなと(囲碁わからないけど)。たしか囲碁でも、ここに石を置くことで緊張感がでましたね、みたいな表現があった気がする。そして音を置くと思えば和音になるわけで。緊張と解放ってまさにリズムであり和音だ。

 

「仮設的」は「仮固定」に通じるし、「潜在的流れ」と「流れ」の関係も仮固定という側面から眺めると面白いし、すべてはそこの背景に流れる、または流している駆動力、音楽に例えたらグルーブにつながるだろうと感じた。この駆動力、グルーブについては、場を共有する物と者の間に有機的・無機的に共通して理解できている部分が必要で、それが歴史的・時間的なものだったり、空間的・景観的ものだったり、経験的・思想的ものだったりするのだと思う。返歌をずっとずっと繰り返しているそんな感じを受けた。共通したコンテキストがないと成り立たないが、それだけだと無粋になってしまう。グルーブは生まれない。そこのズレ、ノイズも入れつつ、ノイズをもう少し引き寄せた形の過去も偶発的に取り入れたり。この辺は積極的な誤配といってもいいし、存在を浮かせるといってもいいのだろうなと思う。

 

形とか容ではなく、かたち、とあえてひらがなにしているのは、その言葉のもつ柔らかさしなやかさが、力を携えているからではないかと、そして庭のかたちとは、自分の言葉としては、庭の駆動力、庭のグルーブということなんだろうとおもった。

 

思い出したのは先輩の研究のこと。植物の細かな分布の決定要因の研究があるのだけれど、そこで初めて、自分は、ある個体がそこに居るということ自体の意味の深さ、同時にそこに居ない個体が居ないということが持つ意味ということに初めて気づいた。楽曲の休符、リズムの裏拍、点睛、余白、そういったものに、積極的な意味があるとしたときにまず感じたとてつもない恐怖(としか言いようがなかった)は今も残っている。その、目の前の存在と非存在に隠れるとてつもない歴史的な物、というのを庭とかみると感じるんだよなあと改めて思った。

 

本書で最初の方に取り上げられている、自然石と景石という概念、その不明瞭な境界、不明瞭だからこそ意思が、理が光るレジリエンスが内包されているとしてもいいのかもしれない。庭で展開されてしまう過去の空間との会話も、「遡行的に把握された流れ」とのインタープレイも、レジリエンスという概念と呼応する。こうなっていくと、自分としては 庭=生態系 みたいな、とても安易な落ち着きどころに落ちてしまうのだけれど、一回り半して考えると、やっぱりとても面白い。学部の頃、庭園史という授業がやたらめったら面白く感じたのだけれど、ようやくちょっと腑に落ちた。好きなんだな。

 

とかいいながら、本書の最初の方で出てくる4つ目に置かれた石の位置は、自分の想像と真逆だった。重心だよな、とかバランスだよな、とか言いながら全然逆じゃないか!と、なんか恥ずかしいと思った。けど次の瞬間これはおもろいな、とも。そして恥ずかしいと思った自分にちょっと残念でもあった。

 

本の構成という意味では、奇数章と偶数章の関係がとてもわかりやすかった。この仕組み立ては自分もたとえば授業とかで、どこかでうまく使っていきたいと思う。

 

5/31が大変楽しみです!

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「この石はいったいなにに属するのだろうか」(p37)
「意図とも明確でない欲望のようなものが、ひとつひとつの石の姿に、無数の石と石の関係に、つまりは石の「配置」に転写されている」(p38)
この感覚は自分が野外で、特に土壌をサンプリングしているときのあの感覚と全くおなじ。この土はいったい何物なの、どこから来たの?何歳なの?どうやってできたの?と毎回思ってる。
 
 
「庭とは持続的な手入れに依存する仮説的な配置や程度のことだ」(p39)
これはまさにたとえば生き方とか、すべてにおいて通ずることだとおもう。しかし、こうさらっとした文章として出てくるのがすごい。
 
 

「いえ、古川さんが怒ってはるのは体の使い方なんです。庭の姿かたちは最初にあるものではないので」(p49)

言葉の受け手がその内容をきっちり限定して受けているところが、その言葉の出し手と受け手の関係がすごい。こんな風にしっかりと現状を捉えて答えられることが自分にあっただろうか。物と者の間の関わり合いについて本書ではかなり書かれているけれど、この受け答えの中にその大事な部分は詰まっているなと、いま振り返ると思う。

 
 

「この石は何を求めているんだろうって、そこまで行ったら道楽だよね。そこまで解釈する研究者もいるけど、つくっている人間からすると馬鹿馬鹿しい。それだと一生かかっても庭はできない」(p51)

この言葉はすごい。素晴らしいしすさまじい。

この言葉から次の部分
「石は庭師たちの行為を触発するという意味で乞うのでなければならない。石は解釈されるべきものではなく行為を促すものなのだ」(p52)
という展開にはそのリズム感の良さと相まって感動してしまった。これぞインタープレイというやつではないだろうか。独立しながら影響し合う、というような。
 
 
「つまり石組は、視界に枠づけられた構図のなかで完結するわけではない。布石は庭の領域そのものを切り開く」(p61)
これなんてまさに生態学におけるメタ個体群を考えるときの考え方とおなじだと思う。つまりいま、内部での見えている構造は、外部との相互関係の結果、スナップショットとして見えているものであって、内部だけで解釈するのはおそらく足りない部分がある。進化も考えに入れればなおさら。
 
 
「庭づくりとは、ひとつの物体が置かれるたびに変わってゆく場に、新たな物体を巻き込み連鎖させてゆくことだ。庭とはこの連鎖の結果として残る物体の配置のことである」(p61)
これはとても重要なまとめだとおもう。上にも書いたけれど、庭=生態系というのはあまりにも単純な構造だけれど、しかしそうだと言うしかないな、とも。この連鎖の結果というのが、結果は移ろい続けるが、その連鎖そのものが、歴史、魂、空気、意思として場に、庭に、環境に残るのだとおもう。上にも書いた、町屋良平さんの「われわれ」ともつながる、得体の知れないあれ、だとおもう。
 
 

「しかしこうした図像的理解は、その理解そのものを校正するかたちの力について、ひとつひとつの石が変動し続ける力の場にどう結びついているかについて、あるいはその物体の構成が何をしているかについては、何も教えてはくれないのだ」(p61)

まさにこれは自分が直面し続けている問題で、見えるものは見える、が、見えないものは見えない、という埴谷雄高的な表現でしか表せない苦しいところなんだとおもう。自分は力、力の場、を明らかにしたい、知りたいと思っているので、仕事ではそういうことに着目しているつもりだし、音楽であれば駆動力をもたらすもの、グルーブにずっと耳が引っかかるのだと思う。
 
 
「あれはきっかけだよね。あれがあるからはじめられるっていうかね。ぼくが据えてないでしょ?だからぼくのクセがないんだよね。遊び心でもあるし」(p68)
あまり目立たない「へそ石」がきっかけ、水が凍るための核のようなイメージだけれど、とにかくきっかけ、起点、原点、についてさらっと言及されているここ、大変印象深かった。これは全くノイズの話、誤配の話に他ならないなあと。
 
 
「(石を)選ばずに自分で条件をつくることで明確になるってことだと思います」(p74)
まさに「センスの哲学」(千葉雅也さん)の内容そのものだ。制限、仮固定、その制約が鍵。その制約によってこそ駆動力が生み出されるのだと自分は考えているのだけれど。制約なしでは駆動力は曖昧なものにしかならないと思う。動き始めるために摩擦が必須であるように。
 
 

「石を据える行為は、あらかじめ庭に満ちている他性に、つまりは偶発的な場の力に触発され、そこに巻き込まれ、介入する行為である。石を打つたびに変容する不安定な場は次の石の配置を強く拘束し、それゆえ、自分ひとりで決定しているのではないという直感を庭師に与える。これが現場の観察から引き出された「こはんにしたがひて」の正体だ」(p75)

ここもすごい。空間の歴史として満ちている多性、場の力、そこへの介入、それによる場の不安定さ(不安定なまま進むというのが大事な要素だともおもう)、拘束、様々な相互作用の結果の、動的な営みの本の瞬間的な静的なたたずまい、それだけを自分たちは見ることができる、しかし瞬間的なものの背後にある「こはん」、つまり場の駆動力も同時に実は感じ取っているはず、なんだろうな、と。庭園を見るときは、自分はそれを見ようとしていたのかなぁ、と改めて。そんなかっこいいことはないだろうけど。

 
 
「僕たちが想像する「設計図のある制作」とは共通の尺度で測ることのできない、身体的な判断に基礎を置いたまた別の制作なのである」(p120)
まさにインプロビゼーションではありませんか
 
 
「しかしこうして物質的に蓄積される局所的解決には、物体において生長する非意識的意図―庭の思考―だけでなく、認知的限界と福笑い的な庭の特性によって意識的であるにもかかわらず意図から落ちてしまう意識的非意図―庭の非思考―とでもいうべきものが埋め込まれる」(p170)
これはさらっと一読できる文章だけれど、ここに書かれている内容の密度はものすごい。読めるけど飲み込むのは大変な、素晴らしい文だと思った。
 
 
「素材や条件の「求めるところ」、つまりそれらの本性にしたがえば必然的にこうなるもの。つくることにたいして意識的でありながらも、つくられたものが非意図的になることを目指す無名の技。こうしてつくりだされるものは自然化され、あると同時にないようなものになる」(p181)
匿名を目指す芸術はいろいろなところでかなりあると思うが(この頃プリンスばかり聞いていることもあり)、見えてくる一つの着地点としてはこういう端というものがあるのだと思う。
 
 
「この庭を拘束する雑話的批評が、かたちの本歌取りとしてこの石を見ることを強いるのだ」(p191)
上に書いたとおり返歌という仕組み立てがずっと自分の頭にあるまま読み進めてきたけれど、ここで同じような言葉が出てきて正直嬉しい
 
 
「すべてを精確に調整するというよりは、すべてを微妙に狂わせるような調整こそが、結果として、矛盾し合ったままの整合を可能にするからだ」(p238)
積極的な、意図的なズレを取り入れること、そのことで清濁併せのむような整合を、一応現実のものにする。こういう営みは、理論的になにか補強できないのだろうかとおもう。生態学的な視点では大いにあり得るはずで、そこには常にノイズそして取り入れられていない要因というものが積極的に関与しているはず、、。「偸む」という言葉、「さわり」と同じく、丁寧に考えてゆくべき言葉だと思う。
 
 
「偸むとはおそらく、ディスコミュニケーションを確保することによって最低限の物/者の共同性を縫い上げる非関係の技法でもある」(p243)
これも強度のある文だと思う。このように端的に表現できるのはすごい。
 
 
「古川の庭は、つくられることではじめて、つくらなくてもよかったものになる」(p370)
「あんまり石を見せようとするのは造形が造形で終わってるんだよね。」(p371)
「だから、欠きたいんだよね。完璧なものではなしに」(p372)
これはとてつもない言葉だった。否定の亀裂、即興性・偶発性・欠くこと。造形的構成の全体が隠され、欠かれ、さらにあり続ける。その存在の、歴史の、連続性の「無数のほころび」を我々は「見ることなしに庭を見る」ということ。

 

 

 

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