外部規範性とか、自己肯定性とか、そんな素直な話では、ねじれきっている自分の動機を説明できないと言うことに、今更ながら気づいた。1回半ひねりどころか、5回とちょっと回った後でやっっぱり3/4さらに回してみてる、みたいな、ほんま、どうしようもねー状態。
ひねくれるにもほどがある。
と書きながら、ひねくれないとやってこれなかったというのもあるのだろう。小学生だって、自分のような年齢の人にだって。みんな、頑張っているのに、どうしてもねじれないとやっていけない。正気でいられない、って書いちゃってもいいのかも。
鋭い人の言葉は、こちらが考えれば考えるほど、おなじ顔をしたまま、何回もひねり続ける思考をただじっと待っている。そこまで来たのね、でも、実はまだ先がね、とか、いつも深淵をちらっとのぞかせるようなふりをし続けている。その遊びに付き合うのは至上の喜びではあるのだけれど、同時に、自分の圧倒的な考えの浅さにもほとほとあきれる。おなじ言葉で、どうしてこれほどまでに含まれる意味が違うのか、と。
ときほぐす、という言葉が、どうにも響かない。最初にさびを徹底的に落とさないと、ほぐすなんてとんでもない、って感じだ。