Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

衝動からゆっくりと言葉へ:変わり続ける庭園を観て

「わっ」というのを大事にしたい、というようなことをかんがえているつもりなのであります。

 

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この間、お寺に庭を見に行った。むちゃくちゃ厳しいスケジュールだったけど、どうしても行きたかった。いってみた。

そうです、「庭のかたちが生まれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵」(山内朋樹 著)の舞台のあそこです。

 

www.filmart.co.jp

とてつもなく面白かったこの本については、メモ書きを残しているけれど

 

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たまたま京都の北の方へゆく用事があったので、それにかこつけて行ってきた。一人車をひたすら走らせた。取材は大変だったのだろうなぁとか思いながら。

 

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一目見て、「わあ」と声が出て、そこから笑いがこみ上げてきてしまった。「俗」だ。すごい。かっこいい。デュシャンやん。大ガラスやん。とか、一気に言葉が頭に浮かんだ。写真なんて撮りたくないから、観ていたいから、ちゃちゃっととって、しばし眺めた。

 

生態学者のはしくれとしては、移りゆく生態系、不変などない、というのが、どれだけ生態系という言葉が持つパブリックイメージと違っていようが常に頭にあるわけで、それが目の前である意味具現化されている、人為的な攪乱も含めて、とか思うけれど、なによりも本当に、笑ってしまった。すごいや。かっこいい。自由だ。

 

カラーがふんだんに使われているこの書籍だけれど、一方で、枯山水的な白黒の世界でもあって(石を置いていくところがメインなので)、数年たったときの、緑とツツジの赤、そして鳥たちの色が圧倒的でびっくりしたのだった。そして「わあ」と、「俗っぽいな、これ、いいなぁ」という印象につながったのだと思っている(すべて、言葉は後付けでしかないけれど)。

 

でも、大石の存在感がつよいだけに、その埋まっている部分が多分に人工的であったという、決して観ることができない事実を本で得ていることに、正直クラクラした。そのギャップ、しかも知られないギャップということを、その歴史を、場が有した知識を、どう考えたらいいんだろう。ほんとうは、そういった、感じ取ることができない場の有する歴史、知識、「われわれ」感は、ここかしこにあるのに、僕らは感じることどころか、そんなものの存在すら振り返ろうとすることすらしない。すべてのものに、理由がある。しかも、見えないものにも理由がある。そんなことを思ってゾクゾクした。

 

あまりに満足して、ものの5分で帰ってきた。フィラデルフィアデュシャンを見に行ったときのあの感触と同じようなものがあった。突然おなかがすいて、結構いいお値段のおそばを食べてしまった。いい感じだ。

 

山内朋樹さん、平倉圭さん、鳥羽和久さんのトークイベントアーカイブをゆっくり観てみようと思う。また、違った視点があるだろうし、とても楽しみだ。

https://peatix.com/event/3936838/view

人間ドック終わるまで我慢しよう・・・・・

 

 

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/