Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

圧倒的な優しい視線の広さ: ネガティヴ・ケイパビリティで生きる ─答えを急がず立ち止まる力 (谷川嘉浩+朱喜哲+杉谷和哉)

親ガチャの哲学(戸谷洋志 著)

 

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と平行して、ネガティヴ・ケイパビリティについて、いくつか読み進めていたけれど、Kindleで購入しているこれが、本当に素晴らしかった。

 

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三者三様でいるようでありながら、相互に混じり合い、また離れてゆく、優雅なダンスを観ているような、ジャズトリオのセッションをずっと聴いているような、とても丁寧な時間を味合わせてもらった。

 

「文系」の人の集まりに行くと舌を巻くのが、たとえばセッションごとにちょっとまとめましょう、というときのあのまとめの能力なのだけれど、本書でもものすごくうまく適所でまとめが入っていて、もうびっくりするとしかいえないくらいまとめが素晴らしい。会話しながらこんなことができるなんて、と目を丸くしているのだけれど、さらには、会話で敢えてちょっと離れたり、また戻ってきたり、戻ってくるときに違うテーマを持ち込んで戻ってきたりと(まさにジャズのアドリブだ)、自由自在に視点を変えながら、それでも、「ネガティヴ・ケイパビリティ」をどう考えるか、という主題からは(主旋律からは)、うまく外れない、そこも素晴らしかった。

 

きっかけは、「どうやって、答えを出さないか」というこの数年、特にこの1年、毎日頭にある大きな問題だった。「早熟にならない」という言葉と「知的持久力」という言葉を自分では使っているけれど、どうにも微妙な感じで、話していてもしっくりこない。抜けが多い。そんななか「ネガティヴ・ケイパビリティ」という言葉に出会って興味を持ったのだけれど、この言葉をつくった、詩人であるジョン・キーツは、むしろ敢えてこの言葉の定義を与えていない、というような説明もいくつか見受けられて、それはおそらく正しい態度だと思うけれど、今の自分の差し迫った危機にはちょっときついな、、、と思っていたのでありました。しかし、でも、もうちょっといろいろ読んでみようとおもって(ここが、自分としては大事なところで、少し心に余裕が出てきたことの証拠だと感じている;余裕がなければ知識がしみこんでこないし、しみこまなければ知識は立体化しないし、さらに、余裕がなければ、立体化を待つことも、限られた知識をより広げて再検討しようと思うこともできないのだな、と当たり前のことに気づかされた)、この本にたどり着いて、本当に幸運だった。

 

しかし、激しすぎる流れの中で、魚やその他の水生生物は暮らしを営むことができません。魚などが暮らしやすい環境には、「よどみ」があります。水生生物が住まう上で大切な要素の一つが、実は「よどみ」を生み出すような地形や水草なのです。そう聞くと、「よどみ」のイメージが変わってこないでしょうか。  水生生物の生態系と同じことが、人間の生態系にも言えるはずです。何事も変化し続ける社会において「よどみ」は、時代遅れで、回りくどく、無駄なものに見えますが、そういうものがなければ、私たちは自分の生活を紡ぐことに難しさを感じるものです。逆に言えば、この社会に「よどみ」が増えれば、前よりも少し過ごしやすくなります。

谷川嘉浩; 朱喜哲; 杉谷和哉. ネガティヴ・ケイパビリティで生きる (p.8). 株式会社さくら舎. Kindle 版. 

この「よどみ」という言葉は、(まあ自分が生態学者であることももちろん多分に影響して」やはり、どうしても弱いのですよね。これでは目の前で危機を訴える人、訴えることすらできずに黙っている人に、素直に手を差し伸べることが難しい。この「よどみ」から始まるこの本は、どこまでこのあたりのところを厳しく見てゆくのだろう、と思って読み始めたのでした。

 

しかし、やはり、ありがたいことに、そういう、考えることの初心者に向けて、きちんと配慮が様々にされているのでした

 

しかし、安易に分類ラベルを貼って、適当な引き出しに入れてしまう手つきほど、ネガティヴ・ケイパビリティから遠いことはないはずです。ありがちな「いい話」にしないために、安直な思考や言葉を落とし所にしないために、本書もまた、用意された「いい話」に向かわない工夫が必要だと直観しました。  
その工夫こそ、「思考する共犯関係」を結ぶことです。自分の頭だけでなく、他人の頭も使って考えることで、ああでもなければこうでもないと、どこまでも新しい扉を開き続けるような探索的な思考が可能になるだろうと期待したのです。対話を終えてみて、それは間違いない直観だったと考えています。

谷川嘉浩; 朱喜哲; 杉谷和哉. ネガティヴ・ケイパビリティで生きる (pp.15-16). 株式会社さくら舎. Kindle 版. 

ここは励まされたなぁ、、、、読み終わったとき、3名の会話のinterchangeに自分もそっと混ぜてもらったような、それこそ、共犯関係にいらせてもらったような感動がありました。

 

そして、このところ、つねに「バランス」とか「視野の広さ」とか「視線の多様性」という言葉ばかり使っているのですが、この本も、一言で言えば、本当にバランスがよいのでした。たとえば「アテンション」と「インテンション」であれば、これらの二項対立に陥らないように丁寧に言葉を、立場を、視線を、フレームを選びずらしながら全体像を描いてゆく、このバランス感覚、そしてバランス感覚を支えている広い視野と圧倒的な情報、そして知識、それらが有機的につながっている様が本当に感動的だなと思いながら読み進めました。イベントとエピソードなんて、バザールとクラブくらい素晴らしい例えではないかと思います。

 

なるほどな。そうやって自分を振り返る視線に、「ネガティヴ・ケイパビリティ」って名前がついていると。

谷川嘉浩; 朱喜哲; 杉谷和哉. ネガティヴ・ケイパビリティで生きる (p.280). 株式会社さくら舎. Kindle 版. 

この自分に向かう視線、内省の時間、は、外から見たら、どうしても停滞している、止まっている、何もしていない、と思われる、つまり「非生産的」なものと見なされてしまうのだとおもいます。だけれど、あえて、ここの価値を丁寧に、ゆっくりと、いらちにならず、すぐに「理解」やら「解釈」やら「包有」やらできるなんて全く思わなくていいから、ポツポツと話してゆくこと、会話して対話してゆくこと、安心して間違ってゆき、訂正してゆくこと、ということにつきるのだと思います。この辺でまた、プリズン・サークルとも共鳴するわけで、まぁ、結局自分の危機意識はいろいろな広がりを持っているけれど、逆にいつも、戻るべきところは一緒なのかもな、と思うのでありました。

 

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もうすぐ、「ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』 「会話」を守る (NHKテキスト 100分de名著)」(朱 喜哲 (著))が第4回を迎えて終わってしまうけれど、これも、何度も戻るべきところなのだろうなと。

 

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今年は、頑張って考え始めようと思ってきたけれど、今のところ素晴らしい言葉に出会えているなぁ、、、ありがたい。

 

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/