「ちょっと踊ったりすぐにかけだす」(古賀及子著)が、本当に、何というか、コーヒーに合わせるバターたっぷりのクッキーみたいに、ものすごく好きすぎてこまります。
下記、引用しすぎてしまっているかもしれません。何か問題があればご指摘ください。本当にこんなにも日常は豊かなのか、とおもいます。本当に、なんというか、読めて、ただただうれしい!
Youtubeの中で
「感想禁止」=自分のことを観察できるようになる という解説があって、なんて素晴らしいんだと。
引用ばかりだとまずいとやはり思い直して、一言ずつつけてみます(なんだか上から目線みたいになってしまうのではないかと恐れてますが、、、)
子どもの、目の前にある状況を受けいれる力というのは本当にすごくて朝ごはんを一緒に食べながら私はどきどきした。
「どきどきした」というのがすごくよいですよね、ここ。
茨城県はとても形がかっこいいんだよと絵に描いてくれた。かっこいいな。
娘さんのかっこいい、への反応がいいです。かっこいいです。
好きな食べ物というのはこうしてよくわからずすこし不安なまま決定されていくもののような気がする。
このちょっとした心の動きを丁寧に捉えて言葉で表せているのがすごく素敵です。
私は娘に鋭角的なかわいさを感じているなと最近思う。顔を見ると目に刺さるような感激がある。 いっぽう、息子のかわいさは鈍角的で、じわじわふわふわ当たり良い。性差によるものではなく個体差なのではと、なんとなく思う。
この丁寧な視線(キーワードは「丁寧」なんだよな、と。)が素晴らしいです。
ウーバーイーツのチラシがポストに入っていたのを息子が見て、暑いと悪くて頼みづらいよねという。たしかになあ。仕事と、仕事を依頼することについていろいろと話し合った。
すっとメタ化している、この感覚はとてもご家族にとって大事なものになるんだろうなぁと。
そろそろ寝ると息子がやってきて、イヤホンがかつてなくきれいにまとめられたと見せてくれた。
こういう事の貴重さ、今もかみしめながら日常を過ごすべきだよなあと。
食後、息子が「そういえば今日の3時ごろすごくなかった?」といった。えっ、なにが?と聞くと「ものすごくすがすがしくて気持ちがよかった」「いままでに感じたことがないくらい」と。 ふふふ。それが秋です。
ここ、最高です。息子さんがむちゃくちゃかっこいい。
お兄ちゃんはじゃんけんに負けてもこの隙間に気づかずおいしく食べただろう、でも私は隙間に気づいてしまった。それもくやしい、と言うのだ。
(1)ケーキの幅が兄の分より狭くてくやしい
(2)そのうえ内部に隙間まで見つけくやしい
(3)兄だったら隙間は見つけず気にせず食べるだろうと思うとくやしい
すごい。娘の心にくやしいが畳みかけている。とくに(3)には感心した。兄の鈍感さをうらやみくやしんでいるのだ。くやしさの拾い方がていねいすぎる。
ていねいだ。娘さんも。古賀さんも。この丁寧さは本当に素晴らしいなぁ。
帰るなり、「ぷ」の文字がボウリングの球を投げようとしている人に見えると解説してくれて納得する。「あと、『興』は通りにビルが並んでいるように見える」とも。おお、そうだねそうだね。
こういうの、あるんですけど流れて消えていってしまうのですよ。もったいない。
「お母さん黒が好きじゃん? あと餃子好きだよね。黒と餃子どっちが好き? そういう感じで、いちばん大切なもの」 答えは出なかった。
これですよこれ。
ブォ~! 心のなかに長らく係留されていた船が喜びで出航した。一週間くらい前に買ったらしく娘はずっとおかあさん絶対に喜ぶはずと自信をもっていたので、もらったらよほど喜んでやらねばなと思っていたが、素直な心で大喜びしてきゃっきゃした。
この、しっかり、ドキドキしながら喜んでいくところが、本当に愛おしい感じです。
店で買ったものは朝のうちに自信をもって渡せたけれど、手作りのものは自信がなくまた照れくさかったんだろう。気持ちがわかる。 手紙には「いつも私たちの幸せお考えてくれてありがとう」と書いてあった。 いつも君たちの幸せお考えていること、ばれてたんだな。
特に前半の部分が本当に素敵です。
子どもは
・対処法を知らないのでまず原因を押さえる方向に頭がはたらく
・あきらめを知らない
・考える元気がある明日から風呂の栓をしようと話した。
おなじことを時々考えていて、これは自分には失われてしまっている そりゅーしょん だよなぁと。
「社会がもう添削問題」という意外な理由で人がじゃれついてくる、心の垣根の低さに感心した。これが家族の距離なのだなと思う。
心の垣根の低さ、という言葉にはっとしました。なんて素敵な。
いつも〝私〟をどん欲に確認する雰囲気が娘にはあって、頼もしい。ギラギラしている。
娘さんのかっこよさを頼もしいという言葉で表現しているところがいいなぁと思います。
思った以上の解放感にちょっとぎょっとすらする。子どもたちのことは好き好き大好き超愛してるの極みだけれど、安全に不在であることにこうもほっとするものか。
この機微もよくわかります。けど、書けるかというのは別問題。
午後になり娘が帰り息子も帰ってきて勢ぞろいし、こうして朝出ていったのと同じ人間が夜また帰ってくる、その当たり前のことが家の醍醐味だったと思い出した。誰もどっかへ行っちゃわない。緯度経度、ずれずにばっちりここに帰ってくる。
家の醍醐味、という言葉はすごいなぁ、、、緯度経度ずれずに、というのもすごい(すごい、という言葉を使い始めるとまずいけど、、、)
娘の観ているテレビから「有限の資源を大切にしていきたい」というコマーシャルのナレーションが流れ、息子が「おれも!」と言うので「わたしも!」と続けた。
情景が目に浮かびます、ってことばで終わらせたくない多幸感があります。
背中があきらかに大慌てしていて「いわんこっちゃない」と「かわいいですな」が混ざった気持ちに。
これ、本当にぐっとくるところでした。
夜は本を読んでいると、息子が「膝に、かさぶたをはがすのをがまんする時代がやってきた」と言ってやってきた。
これは大笑いしちゃう。息子さんすばらしい。こんな風にいえないですよね。
嬉しい、ありがたい、誰かの熱意がこんなにも頼もしい。
この一文だけ取り出してもわかりにくいのを知っていて敢えて取り出しました。
小学校に向けて娘のようすを伝える簡単な文章を提出する必要があり「まいにち機嫌よくはつらつと登校しておりなによりです」と書いた。起きてきた息子が読んで「あいつ……」と言っている。「あいつ……家の手伝いもせず朝遅くまで寝て機嫌よくはつらつと登校しやがって……」
これも、幸せな空気が伝わってきます。
娘は快楽的に過ごす才能のある人で、いつも自分を気分よくしている。どういう原理だろうと考えたが、我慢をしないということなんじゃないか。
この娘さんへのまなざしは、とてもしっとりしている感じを受けました。おいしい、濃いめのカスタードケーキみたいな。幸せの塊みたいな。
なにしろできるできないよりも、自分が観たい映画があって、ひるまず映画館に行くその気持ちがなによりもうれしくて私は心がすっかり仕上がった。
この「心がすっかり仕上がった」というところで、うわーと叫んだのでした。
柿を冷蔵庫にしまう、それくらいのことでも、隠して「探してね!」とお楽しみコーナーにする、娘はそうやってすぐ遊ぶから本当に感心する。
放っておくとちょっと踊るし、外を歩けばすぐにかけだす。
ここ、やっぱり最高です。ここをタイトルにするなんてなんて素敵な。
これは自分の家でも使っちゃうだろうなぁ、とか。
子どもの送迎をするとき、不思議とこれは私の人生であるがすっかり脇役のような気持ちになる。その場に圧倒的主役がいるケース、人の結婚式とか誰かのなにかの授賞式とか、そういうときすら感じない脇役性を、子どもの習い事の送迎に強く感じる。地味で継続的だからだろうか。だからうれしいとかかなしいとかそういう感情はまったくなくて、純粋に信憑して託す、それだけの行動をしているとの、感慨というか感想がある。
これ、同じようなことをぼんやり思っていて、「パシリ」につながる責任の外部性みたいな楽さを楽しめる時間でもあるよな、と思います。
娘が「画面に桜とか花が映ったときにキャスターの人がにっこりするのが好き」と言って、好きだと思った物事を即座に言葉にできる力があるのだなと感心した。ちょっとした「好き」は感じてもなかなか言語化するところまでいけない。
ここも好きです。娘さんへのこういったはっとする言葉が本当に素敵です。
自己肯定感の高さがまぶしい。どれほど上手なんだろうと眺めると、普通にちゃんと半分くらいは失敗していたのも良かった。
このあたりのさじ加減もとてもいいですよね。
風が強く、洗濯物が物干し竿を窓の右から左につーっと渡った。「風がわたる」という、その様を目撃した。
これは、なんか、でも、拾っておきたいな、と思うところだったんです。ちょっと全体の中でも雰囲気が少しだけ違う。
喜んでくれてよかった、やったあ、と心臓をでんでん太鼓式にどこどこ打ち鳴らしながら、薄皮をむきやすくカットしなかったきのうも愛してはいたんだけどな。 もしや愛というのは(早く起きて時間もあるし、薄皮むきやすくしといてやっか)みたいなところに宿るものなのか。やや愕然とした。 愛を伝えるということは、とても面倒だと判明してしまった。 私などは通常甘夏の薄皮なんか適当に弁当に入れて「生きろ!」という強いメッセージとともに渡しているわけで、しかしだからといって愛していないかというとそうではない。いつでもどこでもむちゃんこ愛しているんだよ。
ここもほかとちょっとだけ違っていいなぁと。
「遭難してるんじゃないか」と兄に言われて「心が……?」と妹は返し、この人たちは最近気の利いたやりとりを切磋琢磨している。
いいですねぇ。こういう時間って、切り取るのは簡単じゃないなぁと思います。
旅に出たら「家のことは、なにもかも忘れてしまう気がする」と言っており、だといいなと思った。
ここ、一番いいなとおもいました。娘さんの言葉がかっこいいし、それに対する、いいなと思った、も素敵です。
子らが目覚めて自力で体を起こすとちゃんと形があってほっとする。起きるたびに新たに骨がうまれるかのよう。
自分は毎回、奇跡だなぁと思いながら見ています。もう母親より大きくなっているのですが、ちゃんと生命活動しているなぁ、とか。
娘が冷蔵庫で冷やしたペットボトルを2本指の股にはさんで右手に持って「ふたつの物を片手で持ちたいってロマン、あるよね」というので同意して感心した。本当にそうだ。片手で持つかっこよさ、ある。
この雰囲気いいです。最高です。
娘はさまざまの経験をカウントしている。「お母さんは人生で何回、鼻から冷やし中華出したことある?」と言うから、数えていないことを恥じた。
この、予期しない質問の感じ、忘れかけてしまっているよなぁと思いました。
いっぽうの娘は、私が日中本棚に片づけたぬいぐるみをまたちゃぶ台に戻した。「ぬいぐるみは棚に飾ると飾りになっちゃうよ」と言う。 なるほど、ぬいぐるみはどこに配置するかによって静と動が決まる。棚に飾れば置物として眺める静のものになり、床に置いておけば玩具として動的に用いられる。娘はぬいぐるみを、できるだけ動の物として取り扱いたいのだ。
このぬいぐるみに対する感度がいいですよね。おそらく共有されている感度になってくのでしょうけれど、そこがなんともいいですよね。
今日は絶対に死ねない。終日そとで取材の日で、足元をよく確かめながら出かけた。
これは自分も何回もありました。謝らないと死ねない、今日は絶対に事故があってはいけない、と言い聞かせながら家に帰りました。
おいしい焼き肉やさんと同じように、多くの人に勧めたい一冊です。人気店になって予約できなくなるかもしれないけど、それでもいいやん!っておもいます。本当に素敵。次の2冊が待ち遠しいです。