Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

受験後遺症の自分、身体の声を聴くことでそこから抜け出すこと:「受験後遺症の大人たちが子どもを追い詰める」(鳥羽和久著、世界2024.02)

どこかに、感情でなく体の声を聴くのが大事かも、みたいなことを書いた気がする。また、「自分の中に垂線を下ろす」という楽直入さんの大変な言葉はいつも頭で回っている。その2つがつながる言葉があった。

 

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世界2024年2月号の、「受験後遺症の大人たちが子どもを追い詰める」(鳥羽和久著)の部分より、これ以上厳選するのは自分にはもうできない、、という3カ所を。

 

日本では大人になっても「勉強」観をアップグレードすることなく、学生時代の延長でそのことを捉えている人が多い。(136ページ)

たしかに。。。。。自分自身を考えると、確かにそうなってしまっていると思いました。

ただ、毎日、「これがわからない」「これがわかった気がする」という話を大人たちが率先してしているのは、悪いことではないはずだなとも思いました。どうだろうか。

 

しかし、「勉強」というのは本来、手段である必要はなく、むしろ大人にとっては、自分の足もとを耕して人生を豊かに味わうためのものであり、それは目的や意図を離れて初めて、出会いの扉が開かれることが多い。

このような「勉強」の可能性を初めから狭めてしまう思考の癖は、大人たちが学生時代に身につけた常識や規範を反復していると想像され、この意味で多くの大人はいまだに学校教育と受験競争の後遺症の中で生きているといえる(137ページ)

まさに後遺症ですね。ふと、我々は知らず知らずに「授業を座学で受ける」という、よく考えたらとんでもない様式での「勉強」になれすぎているなと思ったのです。いろいろな人間が一所に集められて、50分とか90分とか、黙って聞いている、とか、よく考えたら正気の沙汰ではない。でも、それに徹底的に慣れさせられてきているのですよね。今の立場であれば、その様式を変えてゆくことも大事ですけど、敢えてその様式にそって、何を新しくみんなで学ぶことができるか、というのを考えるのも大事だと思い直しています。とてつもないことに慣れている、それをできる、その長所をいかさないともったいない。

 

私たちが過去の地層の中に置いてきた「つくる」ことは、現代の競争社会への提供手段となり得る。なぜなら、つくるためには身体を使った試行錯誤が必要で、その際には、環境に対して入出力のループができ、自分の身体と世界が直接つながっていることを感じることができるからである。これは、自身の身体理解を深める経験であり、それが自己認識につながることで、人生を支える軸のようなものが体得できるようになったとしても不思議はない。(140ページ)

この「つくる」というしかない経験、身体経験、知的経験、体験、いろいろな言葉が混ざりますけれど、とにかく手を伸ばしてみること、そこをどう考えるか、本当に難しいところだと思います。やってみる前にあれやこれやと、自分が「失敗」しないように、子どもに「失敗」させないようにしてしまっている自分の不安さをどう払拭すべきか。子どもがどうこう言う前に、自分ですよね。不定調和、不確実性、多様性を当たり前とすること、まずはそこから。どこまでいってもそこから。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/