Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

そんでもって

休日だけれどオフィスに来ている。

 

 

自分としては精一杯どころか、苦しみながらやってみたことが、相手のプラスにならないどころか、マイナスでしかなかったということがある。あるだけではなく、それが続いていて、さすがにあきれ果てている。ショックを受けなくなっている自分がいる。このことのうらに「でも、だって、どうせ自分は変わらないもん」というのが見え隠れしてそれが吐き気を催す。なんだよそれ。

 

 

ぼんやりしながらいつもより時間をかけて、コンビニで何か口に入れるものを一生懸命探してオフィスに来た。その間ずっと考えていたけれど、まぁ、結局、「励まし」が足りてない、ということだ。

 

 

自分がわくわくしない、ということもある。しかし、自分のわくわく感なんて、実はそうそう簡単に制御できるものではない。見せかけのわくわく感をまとうことになれすぎているし、ピュアにみえる科学の世界であれば、自分の範疇においては昔から先は大分見えてしまっていて、それをごまかしごまかしやっているところが根本にある。限界をみないようにしているだけ、というのが実際だ。

 

 

それよりも自分にとって大事なのは、目の前の相手に対する考えと思いと、その結実として出てくる言葉と行動だ。自分のわくわくなんてどうでもいい(わくわく、って何度も書いていると、アレやな)。目の前の人に一生懸命になれること、全力になれること、それが唯一大事だったはず。

 

 

今は、その一生懸命、全力が、とことん間違っている、のに、一方で、いわゆる、傍目からしたら、政治的には、筋としては、ある程度の正しさを持ってしまっているところが大問題なのだろう。いつも言っている「根本的な目標はなんなの?」というところに立ち戻っていない。それが余裕がないからならば余裕を作るべき。能力がないなら、能力を上げるか退席すべき。ただ、それだけ。

 

 

ここから、坂を下るどころかスカイダイビングのように落ちてゆく、のに甘んじるか、少しでもジタバタしてみるか。世の中的にはジタバタしてみたら、ということもあるかもしれないが、それが「老害」(老害というのはいわゆる ごろうじん がもたらすものではなく、アクティブな、自分のようなまだ中途半端にアクティブな主体がもたらすことを改めて感じている)であるという認識ではなく、つよい苦みを持った嫌悪感を持ってはいる。

 

 

正しいことを正しいかどうか丁寧に追求してゆくことの何が悪いのか、不足していることを不足していると指摘することの何が悪いのか。いや、正しい。たぶんね。けど、問題は、そこの正当性にあるのではない。それを問題をずらしているだけ、とさらに指摘するのもOKだ。OKなんだけれど、自分の目標はそっちの方向か?

 

 

どんどん自分がいやな人間になってゆく、その流れに黙って乗ってしまうのか、たとえ結果がそうであったとしても、なんとかしてそこから抜け出そうと足掻くのか、それとも、根本的に全然違う世界へ逃げるのか、はたまた自分の目指す方向とは真逆の、しかし、実は求められているかもしれない方向へむしろ加速するのか。全て自由なだけに、どうしたものだろうか。主体性もへったくれもあったもんじゃない。良く学生さんやこともたちにエラそうなことを言えたもんだとあきれてしまう。

 

 

いっそ、冷酷に、淡々と、やってゆくのだってありなのだ。論文と同じで、その筋で行くと決めたら、そこでとことんやって、rejectくらったら、それはそれで筋を読み違えたね、で、次にうつるので良いはずだ。何を未練がましく考えているのだろう、その、ほんとうにぼんやりとしたなにかを、ずっと探そうとして、でも、手がかりすら実は見つかっていない。

 

 

ってことで、ボトル洗うか~

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/