Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

何ができるのか

つねにベストを尽くしたい

 

とくに人との間では、そう思っていた。30過ぎてから、少しずつ、努力できるようになってきたと思う。誤魔化さないように、うそをつかないように、ヘラヘラ笑わないように努力できるようになってきた気がする。成功体験もあった。

 

しかし、50をとうにすぎ、老害を振り撒きたくない、なんて調子の良い言葉で誤魔化さずに、全く考えを新たにする、または消える、必要に迫られている。やるか消えるか、どちらもしんどくてぐずぐずする。ぐずぐずする感じがしみじみよくわかる。言い訳は星の数ほど抱えてる。変わるチャンスのはずであった外圧すら、ある程度制御できてしまうのが50代。

 

とりあえず変わろう。変わろうとしても簡単にはかわれないんだから、頑張らないと結果にはつながらない。せめて努力はし続けました、と言えるようにだけは、誤魔化さないように、しっかりやろう。

 

昨日、下書きからDeep Lに流して、それをIpen AIに直させて、添削して、、を繰り返したら、満足できる推薦書ができた。三日間のうちに時間をとってなんとか仕上げねばと思った推薦書書きが朝の2時間で終わった。しかも自分が書きたいことが意外とうまく書けた。最後に自分の基準に沿っているかを考えた。大事なのは必ず自分の言葉で相手のことを考えて書くこと、下書きをもらって書くみたいなことは絶対しないこと、で、その基準は満たしていると判断した。

 

リズムマシンが出てきた時のミュージシャンの反応はいまのAIへの反応と一緒さ、というナイルロジャースの言葉に励まされたのもあった。要はなんてもつかいよう。

 

要は、自分のベストはなんなのか、だ。結果としてのベストもあればプロセスが大事なこともある。

 

苦しいのはそれが定まらない時。相手に依存しきっている時。これが苦しい。どう頑張ったら良いのかわからない。相手の望むものがわからない。または相手がそういうことを考えてもいない、ということもあるようだ。馬をを水飲み場に連れて行くが飲まない、ではなく、馬は空を飛びたいけれどどうしたらいいか、と考えているようなケースがある。ピンの先で何人天使が踊れるか、みたいな思考が確かにあるようだ。その思考の、筋の「多様性」に対応できない。対応すべきかすら疑問だが、その線引きはかなり厄介だ。合理的判断という言葉を乱用しがちになる。

 

多様性は苦しい。当たり前だ。全力で守りたいが、社会は一定の枠組みを必要とする。悪気のない、考える能力が訓練できていない結果としてのフリーライダーは、でも、やはり、なんとかしないといけない。ルールだからではなく、もっと誤魔化さずに、ずるいから、か。頭悪い言葉だな、、、

 

そんなこんなでもうすぐ四時になろうとしている。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/