Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

切断、内包: 「意味という病」 (柄谷行人著)

「意味という病」を読んだ。残念ながら心底読めた気はしないので、眺めた、というくらいかな、、

 

柄谷の文章に慣れていないからか、柄谷の著作にはこれまでも何度となくトライしているが、なかなかうまく入ってこない。ここかしこの大事なところで小林秀雄が言及されるので、小林秀雄のあの文章でええやんか、と思ってしまうのもある。しかし、今回はそれでもかなり読めた。

 

どうしても戦後という題材が色濃くある。見定めようとしても上手く取り扱えないこの題材を、切断したり、内包したり、なんとかして観てゆこうとする努力の残したもの、その方法に、確かに価値はあるよなあと。

 

 

「私」、言葉。時間は違えど、みなければならないもの、みようと努力するさまにちがいはない。

 

 

「鷗外という人間の複雑さにひとは驚いているが、実はそれは彼の所属する世界や関係の複雑さにすぎない。よく考えてみれば、われわれの方がずっと複雑で多様な重層的世界に生きている。さまざまな位相や関係性のなかで存在することを強いられながら、それでいて「私」がつねに同一的でありうるというのは驚くべきことだ。時代や状況によってたえまなく変りながら、それでいて「私」が同一的であるというのは奇怪なことである。『妄想』の鷗外が問うているのは、「自我の確立」というようなことではなく、そういう「私」とは何なのかということである。それはもはや告白の対象たりえない。告白するその当の「私」を彼は問題にしているのだから。」

—『意味という病 (講談社文芸文庫)』柄谷行人
https://a.co/birn1oY

 

 

「どんな意識的な行為でも不透過な部分がある。ふらふらとやったのと大差ない要素がある。とにかく先ず人間は何事かをやってしまう。そして、やってしまってから考えるのである。われわれはすでにやってしまったことについてしか思考しえない。しかも、すでにやってしまっていたということへの異和感なしには思考しえない。これは極言すれば、われわれが誰でも気がついたらすでにこの世界に生きていたということと変りはない。」

—『意味という病 (講談社文芸文庫)』柄谷行人
https://a.co/fPFRILr

 

 

「自分をうまく説明できない人に代わって、その説明できない部分を説明してやっているような文章が横行していますが、書くほうにも読むほうにも、言葉では掬いきれないものへの自覚がなければ、言葉はものを通じさせることにはならないでしょう。」

—『意味という病 (講談社文芸文庫)』柄谷行人
https://a.co/afzKlDl

 

 

「書きたいという衝迫は、どこかであの不透過な部分、埋めがたい空白の部分とつながっている。つまり、衝迫は自分が考えていることと在ることとの間にある本質的な隙間からやってくる。「有りの儘に書く」のは、ただ自分自身を知りたいという目的以外の目的をもたない。」

—『意味という病 (講談社文芸文庫)』柄谷行人
https://a.co/fYI7OaV

 

 

「山の人生」のくだりは小林秀雄もまったく同じことを同じ部分を取り上げて書いているので驚いたが、こちらの方が少し丁寧なのだな(良い悪いではなく)と感じると共に、二人の違いも垣間見えた。それも良かった。

 

 

 

 

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