Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

異質なものへの嫌悪感からなんとかして学ぶ

違いは嫌悪感としてまずは顕れる

 

と名言を残しているのはかみさんの親友なのだけれども、毎日これを考える。

 

違いは当然。そんなものはわかっている。おそらく、その違いに嫌悪感を抱くのも、生命を維持することにつながっている、本能的なものな気がする。そこをなんとか社会という枠組みで制御してゆくのがある種の知性であり、それが社会的動物の「優れた」ところなはずだと思う。

 

だから、まぁ、嫌悪感を抱くのはよい、しかたない、としている。自分も、他人も、違いにぱっと、いやだな、という反応を抱いてしまうのはOK。まさにOKという言葉を使う感じ。ただ、ただ、、、、そこが積極的無関心につなげられるか、というところだ。もちろん、おなじ目標に向かっていく社会の一員であれば、そこでは衝突があるだろう。違うから。でも、社会=おなじ目標に向かっていく集団、というところが担保されていれば、衝突はなんとか回避してゆけるはず。お花畑的ではあるが、そう目指してゆくはず。ここが、問題なのか。つまり、「おなじ目標に向かってゆく」と思えない、ようやく自分の言葉を使うとしたら「仲間」であるかないか、というところが揺らいでいる関係の場合、そこの揺らぎから来る様々な不安、辛苦が、嫌悪感の源なのだろう。

 

となると「違うけど仲間」とおもえるか「違うし、仲間じゃない」となるか、の問題。なるほど。

 

このあたりの微妙な距離感、温度感は、老若男女(この表現もそろそろやめるべきなのかもね)にかかわらず、敏感な人はとても敏感で、見ていて過敏にすら思うこともある。

 

じゃあ、仲間と思えるか思えないか、となると、これはもう、自分が自分か、そしてその人がきちんとその人か、ということになる。ちゃんと自分自身のの言葉で話せるか、自分の輪郭と相手の輪郭を引けるか、外部の規範にばかり頼っていないか、ということになる。おたがいヘラヘラ笑っていないか、ということ。曖昧な輪郭は、他人の輪郭を知らず知らずに侵食し、混じり合うことで、外部の規範性を、絶妙に内部化するふりをする。あたかも自分の言葉のように、自分の意思のように、外部の規範を振りかざすのがこれだ。

 

本当に注意して、気をつけて、やめなければならない。努力し続けなければならない。嫌悪感を感じるたびに、そこを考え直そう。大事な警告を自分の中からもらっているはずだ。しんどいけれど、そこから学ばなければ。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/