身勝手ないいわけ、というものが確かにある。
その「身勝手」というのは難しい。本人には確固たる筋があり、本人の周りの環境もその筋を支えてしまっているものだろうから。
しかしだな
身勝手と回りが捉えるには、そちらもそれ相応の筋があるのだ。そこは認めよう。自分の筋を認めてほしいのだから相手の筋の存在も認めよう。
その上で、複数の人が「身勝手では?」という意見を持つような筋は、やはり何かしら「おかしい」ところがあるのでは、と内省することは決して悪いことではないはずだ。「一緒にやろう」と思うのであれば。「仲間」であると思うなら。
その内省なしに、いいわけを身勝手にし続けていたら、それは、「面倒な相手」と見なされて、結局離れていってしまうのは、当然だ。そこで「独自性」とか「ゆにーくねす」とか「孤高」とか「異端」とかいう言葉でごまかしても、全体の潮流からは外れまくってゆく。「多様性」をここで持ち出すのは悪い筋ではないけれど、主流を牽引すること、主流から外れるものを拾い上げ続けること、主流から外れるものを生み出すこと、どれが本当に自分たちのやるべきことなのか。
昔々、nasty boyと発言してさすがに場がざわめいたことがあった。もう20年以上前のことだと思う。あれを自分に向けないといけない。勝手すぎないか?と。