Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

新しい喪失感

そうはいっても朝、運転しながらCDを聞いていた。

 

Thatness and Therenessを聞いていたら、涙が止まらなくなった。これにすべて原点が詰まっていると突然わかってしまったのだった。

 

自分の理解は常に本質的ではないとずっと思っている。どうしても差異でしか見ることができない、そのものをただ見つめると言うことが自分には無理なんだと思ってきた。それは今でも変わらない。

 

ただ、差異を見るには、基点が、原点が必要で、その原点は、やはり中学や高校、大学の早い内にできたのだとまざまざと思い知らされたのだった。もはや原点から、基点から、遠く離れて、ひねくれてしまっている自分にとっては、基点は何の輝きも見せてこない。見せてこないのだけれど、すべてが詰まっている、すべてがここにあったと言うことが突然わかってしまって、その意味の大きさに圧倒されたのだった。少し濁った和音も、色の見える音も、カッティングギターの切れも、アドリブの予定調和的な流れも、あの頃の自分にとってはすべてが新鮮で、乾いた土が水を吸うように、ただひたすらそれを受け入れていたのだと思うし、それがなかったら何もなかったと思う。

 

好きなものを失う喪失感というのはこれまでも何回もあったと思う。ただ、自分の中に下ろす垂線を形作っていたものが、なくなるわけではないのになくなる、というこの喪失感ははじめてだ。これはなかなかにしんどい。しんどいならば、いっそ、そのしんどさをぼんやりと見つめ続けるしかないのかもしれない。聞きたいけど聞けない、Waltz for Debby みたいなものなのかも。

 

そして、50を過ぎて、いろいろな点で諦めなければならない時を迎え、新しく、もう一度、水を吸うことができるか、というのが問われているのだとも思う。中途半端な成功体験と、絶対的な体力と聖林力の衰えを携えて、どんな水をどれだけ吸えるのか、ここからが本当の勝負だと言われたら、なんてひでぇ、無理ゲーなんだ、これは、って思うけど、そういうものなのかもしれない。

 

失っていないけれど圧倒的な喪失感。新しくは全くないけれど新たに始める動き。言葉にすると矛盾ばかりが目につくかもしれないが、もしかすると音や、動きであれば、洗練された流れが見えてくるのかもしれない。それを僕らは人となりとか雰囲気とか言うのかもしれない。

 

 

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/