Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

「えらく」なることで失うもの

「えらく」なったことで、決断が迫られる。決断が比較にならないほど多く必要になった。おそるおそる決断すると、それが受け入れられる。それにそってことが進む。それが求められる。

 

「え、そうなの、自分の考えなんて危なっかしいのに」という思いは徐々に薄れ、それに没頭するようになる。それが求められている役割なので、必死に没頭する。能力はそう簡単に向上しないので、勢い、判断のスピードを無理矢理上げることになる。ゆっくり考えても、ぱっと考えても、自分の思考能力が高くないので、あまり差がないのだ。これは正直驚いたし、思い切り絶望したけれど、事実は事実で受け入れるしかない。となれば、なおさら、瞬時の判断がより価値を生む。せめて決断が早いことを享受してもらうのがよいだろうということになる。

 

その結果、待てなくなった。

 

流れてくる情報から判断するためにヒューリステックを全力で使うために、思い込みが激しい結果となり、予定調和的な結果しか見えなくなっている。新着論文も、ぱっと眺めて、こういう話でしょ、こういう問題は解決どうせされていないでしょ、としてしまう。面白いわけがない。

 

人の意見も聞けなくなっている。意見が終わる前に、こちらで勝手に筋を決めてしまっている。その筋のもつ自分への説得力があまりに強いので、相手が本当に言っていることが入ってこない。

 

これはだめだ。本当にいけない。教育で一番大事なことは待つことだと言い続けてきた自分が待てないと自覚してしまった。自覚するまでに、すでに長い間待てていない事実があったことを踏まえて考えれば、これはもうどないもこないもない状態だ。

 

もしも「えらい」状態がいま求められているものならば、その状態にいることで、きちんと捨てるべきものを捨てないといけない。どれだけそれに思い入れを勝手に持っていようとも。引導は渡すのは自分自身でなければ、だれも渡してくれない。

 

 

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/