Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

コペルニクス的転回はどこに

転回というか転向ですが。

 

経験しないとわからない、という物言いに、長いことずっと反抗してきた。全力で。

 

でも、今は受け入れている。

 

人の悲しみをわかるためには経験をしなければならないのか、と反発してきた。同じ経験なんてあるわけないのに。どうすればいいのかと。

 

人の悲しみをわかるなんて、そもそもなんて傲慢なんだ、と言うところにたどり着くのにどれだけの時間が必要だったのかと思うと、あきれ果てる。ただ、ひたすら考え続けるしかないのだろう、その考えを深化させるために、自分の能力では足りない具体を、経験で補うだけだ。もっと頭が良ければそんな必要はなかったけどね、ってことを認めるのに、どれだけ遠回りすれば良いのか。

 

はっきり言って、心の中で泣きながら受け入れた。なぜこんなに悔しいのかわからないけれど、受け入れざるを得ないとおもった。自分の枠を小さくしてゆく感触があった。でも、もう、むやみに枠を広げるわけにもいかないのだなと思った。悟った。これは焼きが回ったともいうのだろうなと思った。もう何年も前のこと。

 

この頃、想像できないものを想像することについてずっと考えている。こう書くと、また埴谷雄高に巻き込まれてしまうのだけれど、あんなに深く潜れるわけではないから、適当に深い冷たい水温を感じてドギマギするだけ。

 

わからないものがあるのはいい。いい。あるし。絶対ある。

 

まずいのは、わかった気になっている事柄。わかった気になっている、という局所最適からどう抜け出すのか。抜け出す術が見えてこない。不足感のなさをどうしたらよいのか。圧倒的ゲームチェンジャーの出現を待っていては、あっという間に時は過ぎる。過ぎるというより溶ける。しかし、抜け出す術がない。見えてこないじゃない。ない。ないとしか思えない。そんな術はもともと存在しないのではないかとも半分思っているわけだし。

 

この抜け出す術は、アブダクションくらい、ウルトラCの、発想の転換が必要なのだと思う。マジかよ、そんな無理矢理なの?って力業が必要なのだろうとぼんやり思う。それだけの駆動力が果たして自分にあるのか。

 

「順番が来たんだよ」というような進撃の巨人の台詞が頭を何百回も回る。順番とはこういうことなのかと。

 

救いなのか、呪いなのか、とにかく、ゴールまでまだ時間の猶予がある。あるように設定している。その中でどうあがくのか。自分はどうするつもりなのだろう。あまりにもたくさんのしがらみがあって、いつの間にか自分の輪郭は、しがらみでぐるぐる巻きにされたことでしか見えてこなくなっている。中身は空っぽじゃないかと。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/