Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

思いつき羅列

迷走じゃないや、瞑想的な時間を。

 

一言で言えば、凝り固まっている、ということにつきるのだと思う。

 

溶かせないなら、せめて砕く、砕けないならせめてずらす、それでもダメなら、もう、どうしたらいいかな、手を当てて温める、しかないか。とにかくなにか行動を。もしかしたら数年間全く止まっているように思えるかもしれないけれど、それだけ動きにくいものなのだから、仕方ない、というのも受け入れられるのではないのかしら。

 

気温5度。部屋の暖房入れてみた+足下暖房入れてみた。お湯わかしてる。0730になったら気合いを入れると言うことにして、それまでの1.5hrはちょっと自分のために使おう。メイルもアプリも立ち上げない。ぼんやり書きながら整理。

 

このところ楽しい時間の一つは、車の中で本を聞くこと。今は量子コンピューターの話を聞いているけれど、あのブランケット記載法が読まれると、全く分からなくて良い感じ。とにかく自分で手に取ることが恥ずかしいと思っていた自己啓発本とか、1.7倍で聞き流す。やっぱり書籍なので、どこかしら、おお、と思うところがある。その気づきは素直に大事にしたい。知らないことを取り入れるするのは本当に楽しい。問題はその1/20を目標に出力できるのか

 

ストレッチがこの2週間完全停止している。恐らくまともにやっていた頃と比べたら3週間止まっているのだろう。本当に危機的な状況で、ほんの1時間、家で仕事ができるだけで大分楽になったけれど、それでいいのか、という問題。ストレッチしながら英語の勉強して、特にシャドーイングをストレッチしながらやるのは、2つ平行しながらやるので、恐らく効率的にはダメだけれど、感覚的にはなにか変なことをやっている感があって、気分が良かったのだが。英語の教材が半年で終わり、また最初から戻っちゃうのかなぁ、とか、動機付けを弱くする要因は多々あるわけだけれど、なんとかやり直さないと。

 

自分のリズムを見直したときに、週末に、ちょっとした練習ができて、自分の書きかけの微生物バイオマス論文に手を入れられて、ちゃんと犬の散歩が朝夕できて、子供たちと何か一緒のことができて、自分の勉強ができて、ストレッチがしっかりできる、というのが大事というのがこの1年で分かってきた。一方で、これはかなりきわどい。部活もあるし、それこそ土日の会議は多いし、土日に長の仕事をやらざるを得ないことがほとんどだし、そもそも土日に「仕事」をしない日がない。上の理想型であっても、論文書くとか勉強するとか、それはお仕事の範疇ではある。朝せっかく6時に来ても、0830まで長の仕事ばかりやっているのがこの半年だった。それまでは朝のこの自分の時間は論文を書くとか、論文を読むとかの、研究者的な時間としていたのだが、それはもう自分の能力的には適わない。

 

人との活動においては、どうしても「上」な立場ばかりになってしまっていて、いわゆる「管理」業務が多くなっている。で、この管理業務ができていない。でも、その根源は、管理業務の得手不得手というよりも人との活動における信頼関係の構築と、その維持の問題だと思う。しかも、その信頼の問題は、相手との間というよりも、自分に向けたものなんだと思う。自分が全力を尽くせているのか、というところが絶対的な基準点なのだけれど、そこが常に揺らいでいる。というか、何に重きを置くべきかということの順序が大きく変わっていてそこに本心がついて行っていない、というのもある。「長」の責任とはこういうものなのか。以前、上司に対して「もう諦めちゃえば良いのに」と思っていたことがあるけれど、自分に対してその言葉を何十回と投げかけているのに届いていない、という感じがある。結果諦め方が分かっていないので、中途半端で、いろいろな方向に迷惑をかけているのだということだ。

 

字がめっぽう汚くなった。自分の大事なコーチングノートをめくるとあまりの違いにぞっとする。文章も荒くなっている。これらは「決断」の数が圧倒的に増えて、常に意見を求めているのではなく、決断のための要素を求めていて、自分にとって決断が求められている、という圧力の結果なのだとも思う。常に早く、単純に、決断せよ、と。これは教育をはじめとした人との関わり合いにおいて、必要だと思っていたこと、時間をかけること、と真逆の方向だ。そりゃ崩壊するに違いない。気楽に意見を言う場面が少なくなったのは事実だ。気楽に意見を言って良い場面でも、そういう語り方がすでにできなくなっている。常に上から目線的な空気がまとっている。スナック言語だ。ほんとうは話を聞く側でありたいと思っていたのだけれど。

 

できるだけ英語もどきの単語を使わないようにしてみたり。コミュニケーションといった瞬間、自分の感度が下がる。今度の勉強会はインクルージョンだけれど、もう、言葉が浮きまくってしまっていて、どうしようもない。

 

いろいろなものが手に入らなくなってきている。値上げでは追いつかず、手に入らない。ものも、サービスも。結果、機会も。これは恐ろしいことだ。こういうことになるとは。

 

論文アーカイブをやっていると、仕事している感がどんどん増すのだけれど、精神安定剤でしかない。ちゃんと読めていないというか、眺めている時の自分の基準が、これまでの研究の延長線だろうということで、グラフを眺めた瞬間に勝手な評価を下している。これまでおおよそ良かったけれど、今はダメな部分が増えてきている。現在1500本で、なぜか今年、多めな気がするが、読む質は劇的に下がっている。これでは以前の論文を引用してどや顔するわけだ。classicな論文が大事とか、言い訳としては大変有用だし。

 

たしかに考えてみると、本当に日程調整ばかりやっている。それはそれで良いのではないかともおもうけれども。

 

対面とオンライン。オンラインで疲れた、ということを言わなくなった。それは感度を落としているからだと思う。その上で、最低限の情報共有ができれば良い、金銭的に効率が良い、と心底思えれば良いけれど、果たしてどうだろうか?特に前者の情報共有という言葉でごまかしているところは、本当に考え抜かれているか?

 

あと2年、あと4年、あと5年、あと14年、と違う軸で見ることをやっていなかった。子いうところにも、思考の凝り固まりが見て取れる。ある軸に集中するのは良いけれど、集中は排除にもなるわけで、捨てる可能性をしっかり見つめたかどうかは、別の話としてきちんと吟味すべき。

 

さて、では、論文アーカイブみたいな準備体操から始めましょう。0700だ。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/