Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

別phase

論文へのコメントは徹底的にファイル上でやるようにしてきた。そうすることで、

 

A fatalな絶対に変更すべきレベルのコメントと、好みで変更するレベルのコメントを明確に分けることができる

B コメントの理由をきちんとおさらいしてもらう。コメントにそって改訂してもらいたいことが目的ではなく、コメントの意味を理解した上で、決断(直す・直さない)してもらいたいことが目的なので、ここは大事

 

この両方は直される側、直す側双方にとても大事とおもってる。いち科学者として共著に入るときは、AもBもちょっと緩くしちゃうけど(わかってるでしょー的な;これがいいとは限らない)、教員として入るときはほんまちがう。マジで自分で論文書くときの50倍はしんどい。ほんまにタオルねじりはちまきしてやってる。

 

Aはここをきちんとしておかないと、直される方もイラッとするし(人間なんだから仕方ない。魂込めて書いた文章なんだしね)、直す方は、好みなのか、fatalなのかと考えることは、自分の論の妥当性を厳しく見つめる必要が出てきて、大変好ましい(大変苦しいけど、ここが踏ん張りどころ)。

 

Bは本当に時間がかかる。1つのコメントを書くのに1日(といっても使える時間は限られていてたとえば3時間くらいとかがmaxだとおもうけど)かかるなんてざら。頭だけで考えても甘いから、文献当たるし、相手に分かるように書く、ということをどうするか、って考えてるので、ものすごく時間がかかる。

 

一方で・・・・・・・

 

このAとBを根詰めてやることにIKIGAIを感じてやってきているけれど、これが正解ではないよね?ということもようやく考えられるようになってきた。求められているものなのか、そうではないのか、最善策か、次善策か、はたまた代替策か、というようにもっと幅を広げて見るべき=相手も考えに多様性があるのだ、という当たり前のことに対応すべき、ってこと。

 

このAとBをこちらが魂削ってやっても、相手が分からないレベルの時もあるし、そもそもそれを望んでいないこともある。そこにうんうんうなっていたけれど、うなっていて止まっていても始まらない。実際にはうなっていることで、何かやった感を味わっているだけで、なにも進んでいないし、停滞するだけ。ならば別の方法を試してみないと行けない。

 

実際には今手元にある4本の論文(もっとあったか?)において、上記のようなAとBを頑張っても分かってもらえない=評価されない=しんどい、というのではなく、AとBのやり方をもう少し変えたら、先に進みやすくなるんじゃないの?という段階で困ってた。論文を直すときに「どう言ったらいいのかわかんねえんだけど、あかんねん。もう一歩なの」とか、自分が忌み嫌う表現しかできず、絶望していた(している)。これ、最悪。「君の論文だめだから、もっと頑張れ」とほとんど違いがないやん。これ。

 

なので、AとBで避けていた、oralでのぐだぐだ表現にちょっと戻ることにした。具体的には

 

30分でいいからちょっと話そうぜ、discussionで足りない・書くべき事がなんなのか、他の論文参考にしながらもう一度箇条書きベースでトピック拾い直そう

 

どう改訂したらいいのか、具体的な書くべきトピックまで落とし込むためにzoomしよう

 

というのだった。

 

結果としては

 

* ぱっと相手の反応が得られるので、直ぐに方向修正ができて、結果として、具体的な作業に落とし込むことが急速にできた。1つパラグラフをエサの同位体比の妥当性・それだけから分かることについてつくり、さらに1つ、動物の同位体比の妥当性についてつくり、そのあと今書かれているパラグラフ2つは残して、general conclusionをもう一つ作るけれど、そこはイントロのあの部分と対応するように、てなかんじ。

 

* 自分の感じている違和感、もう一歩感を共有してくれる人の別の言語がもらえて、具体的な作業に持って行けそうな感じ。

 

ここで、こうやって書いていて分かってくる教訓は

 

X 最善の策(たとえば改訂)については、他の人の意見も入れて考えるべき(当たり前)。特に実行者(改訂者)の意見を尊重するのだから、その意見はリアルタイムにもらえた方がいい。そのリアルタイム性と口頭の曖昧性と天秤にかけるという努力を怠るな。

 

この後半部分、なんだとおもう。がんばって独りでうんうん考えてやっていること自体は、悪いことじゃないし、お仕事やっている。うん。でも、ソレジャナイ。きちんと自分がやっていることを天秤にかけること、「答え合わせ」をすること、その努力が足りないって事だ(答えを見るのは怖いし、やってる感は甘美だし)。

 

ここをしっかり認識できれば、自分は次の段階に行けるはず。そのためには、余裕が必要。立ち止まって、本当にこれが、相手の、ではなく自分たちの目指すものになるのか、ということを常に考えること。この当たり前のことにどこまで真摯になれるか。ごまかさないように努力できるか、そこなんだなと。

 

他人の時間をとるのは、、とかいくらでもいいわけはできるけど、自分の手元でどうしようもなく塩漬けになっている様々なものが、自分が苦手で避けていたことを少しだけでもやることで、すすむのであれば、それこそが自分がすべき挑戦なんだよなと。

 

些細なことだけれど、些細なことの中に大事なことは落ちていると考えました、とさ。

 

 

 

 

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/