Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

再掲

垂線を下ろすということについて
http://d.hatena.ne.jp/keikoba/20120324/1332556283
http://d.hatena.ne.jp/keikoba/20110220/1298135596


何かを語り 表現することではなく
現代的であることや伝統的であることが大切なのでもなく
また個性的であろうとすることが重要なのではありません
僕の中に そっと垂線をおろしてゆくこと
世界の何もかもが
同時的につめこまれた僕という存在の洞を手探りでおりてゆくこと
そしていつかは 僕の存在が そのままで
すくっと立ちえる大きな地平に巡り着くことができるのではないかと
いつかは、気高い自然の宇宙の尊厳の広がりの中に
僕自身をとらえ帰すことができるのではないかと思うのです
(「父を語り、我を辿る」、樂吉左衛門著、p74)



振子のように揺れながら進んでいこう
決して一方に滞留しないように
住する處無きを以て花としよう
振幅ノ大キサハ極点ノ重力付加ヲ増大シ
極点ノ付加重力ハ対極ヘノ振域ヲ増幅ス
一方ニ規範ヲ負ッテ他方ニ規範ヲ解体ス
規範の呪縛から逃れるために
ジグザグの歩調をとって
わずかなずれの斜面に花咲く僕を招こう
此処ハ揺籠 眠リノ墓場
覚醒セヨ 刀ヲ取リテ覚醒セヨ
規範ノ深部ニ再ビ叫ビガ反響ス
振子のように揺れながら進んでいこう
決して一方に加担しないように
住する處無きを以て花としよう
(「父を語り、我を辿る」、樂吉左衛門著、p82)

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教養とは
http://d.hatena.ne.jp/keikoba/20140825/1408913407


人間という存在の愚かさを含む大きな可能性について、様々な視点からの示唆を受けた上で、一つの概念、信念として自分自身の軸をもつ、垂線を降ろす、そのためのもの、ではなかろうか。

たんなる知識の集合では教養とは呼べないのは自らの軸との呼応が認められないからである。しかし、呼応が、つながりが、高次への結晶化が、そうそう容易に成せるはずもなく、ただひたすら、闇雲に、いろいろなものをいろいろに感じ取り考える、そういう苦しい時間が不可欠であろう。

その時間を創り出す装置として大学や大学院は、今だ魅力的であると思いたい。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/