Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

徒然

大雨の朝、修論の発表会。朝歩きながら、これまで何を彼らに「教え」ることができたのだろうかと。


Oのことを思い出す。彼はN大で4Xを全日本4連覇した男だ。4年のクルーキャプテンの時、彼は、最後の最後、決勝戦の時に、それぞれのメンバーのシートに、一言だけ書いた紙を貼り付けておいたという。1年間のすさまじい練習の、個性のぶつかり合いの果てにたどり着いた一言がそこにはあったはず。試合中にクライを出すことはおそらく難しい。そんな気持ちもあったのかもしれないけれど、そんなことをするような風貌ではない、ゴリラのようなごつい彼が、最後の最後にこれだけはと考え抜いた言葉たちが、ある意味孤独な場所である4Xのシートにそれぞれあった。出艇するときに気づくだろうクルーメンバーはどれだけ勇気づけられただろう。1年間の濃密な時間が結晶した、しかし自然にたどり着いた一言に。


彼に比べたら僕は何もできなかった。選手としても指導者としても何においても。そしてそれは、やはり、昔も今も変わっていないのだ。悔しさと申し訳なさと情けなさとで、目の前がぼやける。危うく大学を通り過ぎるところだった。圧倒的な力の差を見せつけられて、すんなりと挫折させてくれた彼は今どこで何をしているのだろう。もうそんなおもしろくもないことしか考えられなかった。

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某日、樂美術館を再度訪れた。大事な、大事な一件が片付き、一方大事な案件を2件抱えたまま、それでもどうしても行かねばならぬと思って時間をもらって行ってきた。


正直、いわゆる「後期」の仕事たちなので、おそらく落ち着いた、円熟に向かうようなものになっていて、この間見たような、荒々しい葛藤とは違っているのだろう、なんて思っていた。高をくくっていた。


しかし、正直、本当に圧倒されてしまった。


端的に表しているのが、これまで見てきた作品の中で、自分が最も感動したものが、一番最新のものであったこと。


音楽で話をすればよくわかることだけれど、どうしても初期の作品に作者も観客も引っ張られてしまって、最新の曲をやるよりも昔の曲をやる方がうれしかったりするものだ。もちろん音楽の時代性、同時性なんて特徴も影響しているのだろうけれど、長年音楽活動をやっているアーティストの最新作が最も好き、というのはなかなか出会わない。


年齢を重ねてゆくのに、厳しさは変わらない。むしろ厳しくなっていると思うくらいだった。

中心と周辺、作為と無作為、伝統と前衛。2つの極を行ったり来たりすることで見えてくることがあるのだという、陳腐に聞こえてしまう言葉の真意を、目の前の作品たちは黙ったまま、でもとても雄弁に語っていた。

このように混沌をそのままに秩序立てた世界が(作品が)、目の前に本当に存在しているのだ、大げさに言えば、この宇宙にどうやら本当に存在しているらしい、という感覚が訪れて、めまいでくらくらする。ああ、あるものだけがあるのだけれど、ほんとうにあるのだ、と。


「ちょっといたいな」とだけの言葉がどれだけ雄弁に語っているかについてもひどく感動してしまった。教育者として目指すべき形の1つがあったはず。それができるとは思えないけれど、そういう世界があるということを知っておくだけでも支えになる。


「これ、おいくら万円ですの」なんて下世話な大声に最初は辟易していたけれど、いやいや、何もかも含んでなんぼなんだな、と。そして、あまりに厳しい世界を見てしまうと、そんな下世話なことも言いたくなるわな、なんて優しい気分になったりした。


一人寒空の中、なんて人間は真摯になることができるのだろうか、厳しいまなざしを所作を持つことができるのだろうか、なんて考えつつ、10年前に服を作ったお店に入り、10年前にちょっと通っていた小さなお寿司屋に入り、この間も飲んだコーヒーを飲み、ああ、休日に、PCを開いて原稿を改訂するなんてとてもできやしないな、なんて当たり前のことを悟り、ジュンク堂では科学書と芸術書が同じフロアにあって、ああここで僕の一部はやっぱり作られたんだな、なんて納得して帰ってきた。

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理想論であるとは思う。もちろん思う。自分だってできやしなかった。しかし、それはそれとして。


卒論修論発表、MRの修論発表は聞くことができなかったが、あとはほぼすべて聞いていた。自分の所属する学科・専攻は、「環境」というものにどれだけ多面的な側面があるのかについて強く印象づけられる、とても多様性の高いアプローチがなされていて、陳腐な言葉でしか語ることはできないけれど、とても勉強になった。


残念なのは、学生さんたちが、身内の講演ばかり聴いていることだった。


環境というものを幅広く学ぶために此処を選んだのであれば、一番重要と言っても過言ではない、発表会での発表を、しかも身内のばかり聞くのは本当にもったいない、やってはいけないことだと思う。


「身内」感覚は、客観性を当然ながら失わせる。顕著に表れるのがイントロダクションだ。これまで(日本で、それはにありーいこーる研究室で?)やってきていないからやった、という研究の紹介が多い。それはほとんど科学的には意味をなしていないイントロダクションだ。視野の狭さが、一般性へと向かう意識の低さが、他人の視点への鈍感さが、他者への思いの浅さが、そういうところにも見え隠れしてしまう。


Weという感覚を持て、というのは身内感覚を持てと言うことではない。自分の属している、自分の影響がある範囲をしっかり感じて、そこのうちとそとをしっかり見定めて、常にバランスを取るための線引きをしなさいということだ。線引きをして内向きにだけの視点を持ってはまったく本末転倒なのだ。どうしても人間は内向きになりやすい、楽だから。それを自覚して常日頃、外を見る、外に訪ねることが大事なのだ。必死でそうしてはじめてバランスがとれるのではないか。

サッカーをうまくなりたいと思って、足下でリフティングの練習ばかりしているようなものだ。たしかに「うまくなる」かもしれないが、試合で使える人材にはならない。上を向け、周りを見ろ、そんな当たり前の言葉がなかなか伝わらない。「努力」していることには違いはないから。


それでも何人かの3年生がずっと発表を聞いているのをみて、希望が見えた。

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今年ももうすぐ春が来る。

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