Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

「移行期的混乱 経済成長神話の終わり」 平川克美著、を読む

どれだけ時間がなくても、必要な時間というものがあって、それはこういう思考の流れを追いかけるための時間であるわけで。
当たり前のように思えることがかかれていると思うかもしれない。しかし、それだからこそ、大変なことがかかれているのだと思う。

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『不思議なことに、「格差という物語」は、自らの立ち位置を格差の下位に定めるものと、競争社会というものをさらに推し進めようとするものが共同して紡ぎ出したのだ』(p.162)


『未来を言い当てることと、未来に向けて遂行的な努力を惜しまないということとはまったく別のことであり、重要なのはどのような努力が成されたのかということだけだ』(p.204)


『しかし、グローバリズムというものと、ローカリズムというものがどのように共存しうるのかというように問題を立てたものは多くはなかったのである』(p.126)


『確かに、こういった民俗学的な習慣の上に培われた日本型の会社経営といったものが、グローバル標準から大きく逸脱してゆくことは避けられないことであった。しかし、そのこと自体は、良いとか悪いとかいった価値判断とは別の水準に属する問題であり、どのような会社システムにするのかは、経営者と従業員が共同で作り上げ選び取ってゆくべきものであろう。それはまさに、会社の数だけの様々なグラデーションに彩られた経営スタイルが存在することでもある』(p.123)


『贈与の最も純粋な形式は、親の子供に対する愛情であるだろう。親は子供から返礼を期待して子供に愛情を注ぐわけではない。親が子供に注ぐ愛情には理由がない。いや、ほんとうは深い文化人類学上の、生物生態学上の、哲学上の、歴史学上の理由があるに違いない。ただ、経済学や、商品交換で説明できるような理由だけがないのである』(p.199)


『このような事態を前にして(注:総人口が急激に減少してゆく、それに付随する事態)わたしたちは、どのように考えたらよいのだろうか。それは、ほとんど答えることのできない問いだが、どのように考えたらいけないか、どのような知的リソースはつかいものにならないか、ということは知ることができる』(p.42)

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『製造業にとって、生産コスト上の最大の問題は在庫の調整である。もし、労働者を需要の変化に応じて自由に雇い入れ、解雇することが可能であるならば、この問題は一挙に解決する。しかし、調達-生産-在庫-販売のプロセスを安定化させるために、人材を調整するということはそのまま、労働者の生活を需要の不安定要因のバッファにすることであり、労働者の生活そのものは不安定にならざるを得ないのだ』(p.116)


『当初、派遣労働者の権利を守るというところから出発したはずの労働者派遣法が、ここにきてほとんど企業の国際的競争力強化のための法律へと変わっているのである』(p.122)


『労働も、贈与も、その行為そのものが、他の何ものによっても置き換え不能な価値の創造なのだ』(p.132)


『かくして、かつて金銭に還元され得ないと思われた様々な人間活動(たとえば親切、もてなし、義務の遂行、贈与といったこと)が金銭で測られるようになり、教育や医療や、介護といったことまでが商品(サービス)として流通してゆくようになってゆく時代が到来したのである』(p.133)


『問題なのは、成長戦略がないことではない、成長しなくてもやっていけるための戦略がないことが問題なのだと』(p.141)


『それ(注:「信仰」)は端的に、ひとも社会も成長しなければならないという右肩上がりが自然なのだという幻想であり、右肩上がりとは富(金銭)の増大のことであり、富(金銭)の増大は正義であるという「信仰」である』(p.152)


『格差とは、格差意識の問題であり、格差意識とはそのメンバーが属している社会そのものが構造的に生み出している問題である』(p.164)


『共同体が解体されたことの意味は「同一性」よりも「差異性」が主題的になるような生き方が選択され続けてきたということである』(p.165)


『ただ、そういった社会の経済的進歩と、経済合理性の及ばない人間的諸活動を分別する知を早急に立ち上げる必要があると申し上げているのである。家族や、共同体、地域社会とその中での、医療、介護、今日いう、宗教といったことを等価交換の価値観で計量することに、どれほど慎重になるべきかを学ぶべきであり、それらを学ぶ適切な言葉遣いを立ち上げることが今要請されていることだろうと思う』(p.200)


『歴史がこの先どのような帰趨を辿るのかを説明するための単一の指標というものは存在していない。トッドの慧眼は、何を指標にしたらよいのかということについては、さしあたりいくつかの曖昧な変数を見出すことは可能であるが、何を変数としてはいけないかということだけは、明確にすることができるということを発見したところにある』(p.208)

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/