Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

申請書で大事だと思っていること:なぜあなたはそれができるの?

申請書の添削時期であります。

 

毎回言うことは変わらないです。自分に対しても、添削するのに対しても、評価するのに対しても

 

1 Aはとても大事です

2 しかしAはよくわかっていません

3 そこでAをやります

 

論法が、マジでおおいの。むちゃくちゃ多いの。自分もやっちゃう。

 

嘘じゃないんだけど、、、

 

1はOK。ちゃんとなぜ大事かを書こう。自分だけが大事と思っているわけではなく、たとえばAのBという側面やCというプロセスについては研究が進んできている、とかもね。

 

問題は2よ。

なぜわかってないの?

1でとっても大事、全世界が注目している、っていっているのに、なぜわかっていないの?あまたいる世界中の自分よりすごい研究者がこぞって研究しているのになぜ?どうして?大事なのに???

というのを書いてくれていないのが本当に多い。最初のスクリーニングで自分はここを重要視すると、マジで10%くらいしか残らない。俺の考えはだめなのか、と毎回どっぷり落ち込むけど、でもこの10%の人たちがおおよそすごく良く書けているので、まぁ、間違っていないんじゃないの、って思いながらreviewを進める。

 

3で、Aをやります。そりゃやるぜ、大事だし。でも、2が曖昧だから、なぜあなたが、研究始めたばかりの私が、世界中で血眼になって研究している人々を差し置いてできるの?できちゃうの?なんで?というのがわからない。2がしっかり書けていたら、2で問題となっている点を、自分が、自分の周りの環境設備が、自分の共同研究者が克服できるから、3としてAをできるのです、とスムーズにつながるんだけれど、そこが書けていない。

 

ぶっちゃけ

面倒だから・大変だから・しんどいから

とか

Xという分野では一般的だけど、Yという分野ではその測定技術が広まっていないから

とか、それと関係して

Uという分野とRという分野の交流がないために、同じような測定であるが応用されていないから

といったあほみたいな理由が実際にある。それを書いていいと思う。「そんなことはない!」って怒られるかもしれないけど、正しく怒られるのは悪くないし、勉強し直そう、そのときは。逆ギレされている場合でも、例えば科研費は複数名で見てもらえるし、まぁまぁ、っていってくれる人が審査にいると思って進めるのが吉かと。

まぁ、面倒だからとかは、大変な労力を必要とするとか、もうちょっと書きっぷりはあるからね。。。

 

逆に考えると、この2がきちんと書けていない状態は、自分の研究の売りが明確でない、そして自分の長所、自分の環境の長所がわかっていない状態の現れなわけですよ。なので、ここを精緻にすること自体が、自分の研究提案を磨くことになると思うのです。

 

文量が限られているのはいつでも誰でもおなじ。なぜ自分はそれができるのか、世界でみんなやろうとしているのにできなくて、でも、この小さな自分が、えらそうに、できちゃうのか、そこをもう一度丁寧に見つめましょう。

 

もちろん世界で一人だけってのはなかなか難しいですし、自分はそんなことは一回もないし、これからもないでしょう。ただ、D2の時にBrian Fryに言われた言葉を今でも反芻するのです。世界で戦わなきゃいけない相手は5人くらいだよ、っての。(そんとき、そのうちの1人があなたじゃないか!って泣きそうになったのでしたが)。なので、世界でも数えるほどのラボしか実現できない、で完璧です。充分です。

 

研究が進んでいません。でおしまいにしない。なぜなのかまで説明する。その上でそのなぜ、を自分たちがどう克服するのか、克服できるのかを説明する。

 

やっぱり間違っているのかもしれない。ので、申請書には書かなくてもいいのかもしれない(それくらい書かれていないの。できない、やられていない理由が)。でも、考えることは絶対無駄じゃないと思うのです。。。。弱っちいいいかたになるけど。

 

まちがってるんかなぁ、、、、、

立場と権威

今、いろいろな「長」をやらせてもらっている。やり過ぎとはわかってるけど。

 

で、でも、その「長」って、たまたま回ってきているだけで、えらいわけでも能力があるわけでもない。ただ、最終決定の責任は負う。どう負うかの問題は難しいけれど、とにかく啖呵を切る。

 

でも、もちろん、その責任は負っているけど、えらいわけでも、能力があるわけでも、全然ない。それは毎日モゴモゴ自分に言い聞かせている。お役が回ってきただけ、次にちゃんと回すだけ。それでいい。それでいいとしないと、いけないことが起きそう。

 

それでも「権力を持っている」とか「逆らえない」とか言われてしまう。「えらそう」とも言われてしまう。それにこの数年むちゃくちゃなやんでいたけれど、どう努力してもだめみたい、と開き直る方向に行き始めたのが昨年度くらい。ならば、せめて、しっかり「えらいふり」をして「権力がありそうなのでその権力をできるだけ公平な形かつ広い視点で『行使』する」ふり、じゃなくて努力をする、というのに力を注いでみようと思ってる。

 

これがいいのかわからない。だけれど、他人の印象をそうそう変えることは難しいし、たとえば学生さんや若い先生とはどう頑張っても距離がある。その距離をヘラヘラした態度を持って、ふれんどりー、になろうという方がむしろ失礼じゃないの?ということを考える。その立場は、その役割は、もう果たせない、のであれば、違う役割を担わないといけない、えらそうに頑張る。

 

しかし、ほんとうにいいのかいな。。。。。そしてそれはやりたいことではやっぱりないけどな。。。。

 

 

 

Aべっちに毎日学ぶ

東工大の頃、Aべっちが「毎日、論文みては、あんなにこんなに、いろいろ出てて、自分は何でできないんだろうって焦るんですよね」っていってて、おいおい、おまえほど頑張ってて賢いやつがそんなこといわんでええやろ、って言ったか思っただけだったか、そんなことがあった。制限が強烈にあった中で精一杯頑張ってたよなぁと。

 

この数年、おおよそ同じような感情が、毎朝の文献漁りで出てくる。焦りではなくて、なんというか、亡霊になった感じで、よりよくないと思うけど、正直そんな感じ。もっと悪いのは、論文1本眺めるのに数えると5秒くらい(図表をザッピングしているだけ)なのだけれど、その印象が「昔一生懸命読んだ論文との対比」にしかなっていなくて、かなりのバイアスというか思い込みがあること。さらにその思い込みが「どうせこういう結果でしょ」にとどまらず「だから~~で、XXで、そんなもん」で、さらに「だからそれほど面白くないんだよね」になる。まさに、小説書く書くといって、ほかの小説をただ批評して一文字も書かない人の状態。反省も失敗もしなくていいからね。。。

 

これまでの頑張っていた学生さんの頑張りから学ぶことは多い、どころか、まなぶところしかない。論文を書く、ということ以外のところが今は正直仕事になってしまっているけど、それも言い訳でしかないのかもしれない。何をやるか、何をやるべきか、何をやりたいか、その辺の大きな乖離に折り合いをつけてゆくことは実際にはかなり難しくて、そうであれば、自分はともかく、せめて周りの、これからがある人々の持つ乖離を少しでも緩和する方に自分は努力すべきなんじゃないだろうか。

 

など、Aべっち修論に自分が何ができたのだろうか、と反省しながら、、、今日もピークはゆがんでる!!!!!おーーい!!!!

とれーどおふ

ピークの大きさと、比率の安定と、両方を求めてもだめなのよってIRMSの調整は人生を教えてくれる、、、、、、わけないやん!!!おちついてくれよ!!!!

 

でした、、、、コーヒー飲んで令和と西暦間違えないようにもう一度確認だ。。。

こりゃしんどい

朝一番で、IRMSの調整(ずっとうまくいかない;とりあえず1000番ヤスリで磨いた)と副センター長仕事と学系長仕事。これはなかなかにしんどい。

とりあえずお昼ご飯食べちゃった。今日食べる時間なさそうだ。

くー。

比率の棒グラフ

webinarの続きを聞いている。同位体比とか、濃度とか、比率を棒グラフで表すのはどうなのだろうか?とM1の時に言われたことがいまでも頭に引っかかる。

 

量的なというか、積み上げるイメージができるものは棒グラフでいいだろうけれど、比率とかはやっぱりまずい気がするなぁ。単純に足し算しちゃいけない感じのものはやっぱりだめなのではなかろうか(積み上げ棒グラフへの関係を考えると)

 

 

おまじない

おまじないを考えるべきだな。って、その手の本で書いてあったことだけれど、大事な気がする。

って考えたら、中学の頃からずっとやっているおまじないがあることに気づいた。そうだった。今もやってる。もう一つ増やそう。大事なことだ。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/