Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

足踏みの意味:「居るのはつらいよ」(東畑開人 著)

自分の骨格をなしているのは、1回生からなぜか始めてしまったボート部のコーチまがいの活動だった。教えることなんてありゃしない、けれど、仲間が少しでも早くなって、強くなったらいいじゃない、そんな感じ、いや、そんな言葉ではなく、単に、突き進められてやっていた。

 

そのときのS田さんの言葉が

「コーチみたいなものをやるんだったら、死ぬ気でやれ」

そして

「大事なことは、とにかく居ることなんだ」

の2つだった。

 

なにか、良くしたい、というのはおこがましい話で、とりあえずなにか、動かしたい、ずらしたい、変えたい、というので、あれやこれや考えて、伝えようとしてみたりするが、ほとんどはうまくいかない。ボートの動きはまさに円環そのもので、すべてがつながり、すべてが分断されている錯覚を常にもたらす。堂々巡りもいいところだ。

 

居ることの大切さ、というのは、あの19歳の頃から、今になっても、毎年、毎日、形を変えてやってくる。うまくいくときはほとんどなくて、うまくいかないケースの多様性ばかり増えてゆくけれど、毎日違う。ぐるぐる回っているけれど、毎日違う。

 

コーチング」という言葉が流行って久しいけれど、その中に含まれる「ケア」と「セラピー」の要素、そして、コーチングというよそよそしい言葉を、自分の生々しい言葉に変えることは、未だにできていない。こんなに毎日考えているのにうまくいかない。常にこぼれ落ちる。

 

デイケアでの「日常」を綴った本著は、どこにでもある「日常」の大事なさわりを常に見せてくれている。いつでもどこでもある、ケアとセラピーの重要性。二律背反ではないし、それこそ、だれがだれに、という関係性すら常に揺れ動く。そんな当然のことを改めて見せてくれる大事な著作だった。

 

足踏みをしていることで焦るかもしれないけれど、それは、より高く遠くへ飛ぶための地固め、大事な準備期間なのだとおもって、存分に時間を使ったらいいんだよ、なんてことを、時々他人には投げかけるけれど、自分に投げかけなければならないし、そのために、もう少し自分のことを考えないといけない、そんなことも思わせてもらった。赤なのか、黒なのか、自分で見定められるのであれば自分で見定められる方がいい。見えてしまうよりも、多分。居る、ということの積極性は、植物を見ていたらわかるはずでしょうに。

違いをさらりと受け流す

このところ、ぼんやりとした不安があるとき、というのは、よくよく心をのぞいてみると、単純に、自分の思っていたのと違う、ということのようだ。

 

違っていいと頭ではわかっていても、どうしても心配に、不安になる。しかし、その不安、って、単なる面倒くささ、そして、失敗して恥をかきたくない、ってだけではないかしら。うわ、かっこわる!

 

違いは悪いわけじゃない。とはわかっているのにどうしてなの???

余裕がないから、ってことにしか帰着しないのであれば、余裕を持ちましょう。

 

ってことだよな。さらっとうけながせ!ってことよ。うん。

 

残念

2つめの仕事は10%くらいまでしか進められなかったか。2つ目まで終わらせないと、自分の個人の論文執筆には取りかかれないなぁ、、、

 

今週末も諦めるか。頑張って火曜日の準備をするのが大事だよな。時間いただくんだし。自分の論文workできるかも!と思えただけ前進ということにしよう。

 

寝なければ。しかし、読みが甘いなぁ。。。能力の低下を過小評価しているんだとはわかっているんだが、まだまだ足りないのか、、とほほほほ。

泥沼

泥沼に完全にはまっているのです。どうどうめぐり。どこかにこの円環から抜け出す点があるはずなのだけれど、何百回回っても見つけられない。ハムスターがゲージの中でリングを回している、そのリングから降りたらいいし、止まってもいいのに、なんか回してしまっている。そんな感じなのです。いや、うそです。そんなんでもないんです。いやはや。

 

ある対象に対するレベルを上げるか下げるか、そもそも保つか動かすか。どこにも筋があり、どこにも好みがある。正しさはやまほどある。問題は、常に「正しさ」には「その前提」があるのだけれど、前提も、山ほどあるということ、そこへの自覚、そしてそこへの覚悟。

 

それがないから泥沼と言いつつ、実際は自分の覚悟の問題だというところから逃げようとする。逃げられないし、こんな風に免罪符的なものを用意したりするのだけれど、何も変わるわけではない。いやはや、勝手な泥沼だなぁ~

 

寒いからってことにしよう!

 

って、逃げたけど、これだからいけない。と、書き直している。

 

結局、自分の中の原点のようなこと、駆動力を結局くれるもの、それを諦める、否定する、そうしなければならない現状に、諦めがついていないことが原因なんだとおもう。思う、って逃げてるだけで、原因だ、だけど認めたくない、でも、わかってる、ってぐだぐだ、な状態だ。

 

ずっと信じてきたもの、ずっと自分が好きだと思ってきたもの、ずっと自分が特異だと思ってきたもの、それらをすべて否定しなければならない事実と向き合うことが、こんなにも難しいのかと。体力気力的なもの、嫌らしい成功体験、社会的な「地位」とそこに同居する「責任」「義務」などが渾然一体となって「まぁ、そうはいってもがんばらにゃ」みたいな圧力となっている。それを振り払えばいいのだけれど、その勇気は根本的にない、そこもいらつくところなわけだ。なにしろ自分のことなのでいらつきは無限大。

 

原点なんて、取り直せばいいやん、という軽やかな言葉が舌の上で落ち着くことがあり得るのか、それだけの軽やかさを心底会得するだけの努力を払えるのか、そもそも自分の心持ちにどれだけの責任と義務を感じながら演技してゆくつもりなのか、ってことなんだよね。わかってる、わかっているけどさぁ、、と。

 

やりすごす、というやり方をとることにも、そこはかとない後ろめたさがあるのも、どうなのかと。少しでもよい方向に進むためには、

再読にならない:「生きる演技」(町屋良平著)

2日前にこう書いた

 

keikoba.hatenablog.com

いつ読み返すのか想像ができないけれど、本当に大事な一冊になった。圧倒的な筆力というものを、常に響く重低音として感じながら読んだ。ほんとうに素晴らしい。本当に。

 

と書いたけれど、実はすぐに読み返していた。昨日の朝には読み終わっていた。何かが抜けて何かがのっそりと自分に入り込んだ感じ。感動が異なる色でやってくる。転調しているメロディが流れてくる、というよりも、もう、ピアノトリオだったものがオーケストラを従えてきたような感じ。圧倒的な重奏感。重層感。

 

見た覚えのある言葉を読み進むのだけれど、もはや同じようには響かない。見えなかったものが見えるように、見えていたものが実はなかったことに、今更に気づき、恐れる。正直怖い。恐ろしい。再読にならない。全く新しいものを読むかのごとく、とはいえ懐かしい着地点もあることがなおさら恐ろしい。

 

時間も空間も、自己も他者も、すべてが曖昧になりつつ、それでも、密度の違いのような、断続がありそうでなさそうな、連続していそうないなそうな、すべてがまぜこぜでありながらはっきりと色が、濃淡が違いそうな、場の複層性は、こんな風に感じされるのかと。平たく言えば、違う景色が見える、みたいなことなのかもしれないが、そんな簡単に終わらせたくない、癖になる毒々しさがたまらない。

 

夜闇から身をあらわし、つねに懐かしい姿でここにいる。

町屋良平. 生きる演技 (p.317). 河出書房新社. Kindle 版. 

 

これだ。常にいる。いつもいる。どこにでもいるし、いない。絶対にわかりそうにないのに、とことん、正直、懐かしい感覚。感覚ではないのか、意識なのか、雰囲気なのか、空気なのか、はたまた場の歴史なのか。

 

未だに一番の言葉を拾い上げられそうにない。毎回読むたびにハイライトする文章は変わっていって、気づけばすべての文章をハイライトするのではないだろうか。

 

身体とは過去未来の声の集中するそういう場なのだから。だから自分のものじゃない言葉を演じる。それがただふつうに呼吸しているだけでも演出される人間という営為の連続なのだ。

町屋良平. 生きる演技 (p.373). 河出書房新社. Kindle 版. 

 

長女に勧めたら興味を持ってくれたので急いで本屋に行って紙媒体で購入すると、さっそく睡眠時間を削って読んでくれて、お互い感想を言い合えたのも嬉しい。よく読めたな。読めた感じはしないだろうけれど(おれもしない)。

 

この不思議な感動は、どう表したらいいのだろう、なんて、つまらないことを考えるより、自分の背中でも見つめてみようとした方がいいのかも。

 

埴谷雄高の「死霊」をこよなく好む自分だけれど、同じようでおなじではなったくないこの一冊は、あの大変美しい桃色の装丁も相まって、本棚にずっと残しておきたい。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/