Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

あちらから覗いているよどみをこちらからものぞき込む(「生きる演技」(町屋良平著))

一気に、読んでしまった。

 

昨日、こう書いた

keikoba.hatenablog.com

 

昨日書いたのは、前半1/3程度読んだところだった。せめて仕事を少しは、と、なんとか手元にある論文のイントロを改訂して送り、夜中、息を止めて読み進め、朝には別論文がrejectされた残念な通知が来ていたけれど、とにかくこの本を読み進めた。

 

とんでもなかった。

 

服を着る、ということは社会での約束である、なんていいながら、服にしろ、ペルソナとやらにせよ、我々は複層性の世界をなんとか生きている。句点一つやアクセサリー一つで階層が変わる、解像度の高い、非言語会話を何重にも重ねて、演技なのか、演技でないのか、自分なのか、他人なのか、わからない日常を流している。

 

その階層の複層性、そして、そこにどす黒く染み渡っている呪いのようなものを、自分は見ないように手懐けてきたつもりだし、これからもそうやって、なんとか時間を流してゆくのだと思っている。決意はできていないにせよ、習い性として、そうやってきたし、そうやって行くと思う。それが「生きる」ということなのだろうと積極的に錯覚してきている。

 

偽りたいからこそ本心を言う。

町屋良平. 生きる演技 (p.34). 河出書房新社. Kindle 版. 

 

最初はこんな言葉に感動していた。そして、若者言葉のよそよそしさをいちいち確認しては、その文体との距離を保って、傍観者として眺めさせてもらっていた。自分と相手、演技と実在、現実と虚構の間の冷たい場を行き来させてもらっていた。「推しの子」、のもっと解像度の高い心の動きを見せてもらっていると、高をくくっていた。

 

かつてかれもそうだったことを教え、ない記憶を擦ってくる毎日の連続が、記憶を補ってより強度の濃い「私」を押しつけてくる。

町屋良平. 生きる演技 (p.41). 河出書房新社. Kindle 版. 

 

しかし、だんだんと、「私」と「役」の関係は安定も安全も失ってゆく。

 

こうした理解すら、させられてる、やらされているもののように思えてくる。

町屋良平. 生きる演技 (p.91). 河出書房新社. Kindle 版. 

 

このあたりまでで、昨晩、重層化された呪いを引きずり出す、という言葉が浮かんでいたのだった。

 

甘かった。

 

そんな甘い話ではなかった。呪いという言葉を引き合いに出して、あまねく様々な階層へと広がっている悪のようなもの、そしてそこへの優等生的な嫌悪感を、なんとか顕して、ほっとしていただけだった。

 

ハイライトした部分は150カ所を超えている。しかし、どこを切り出しても、どうにもしっくりこない。どういう読者が「よい読者」なのだろうかというこの頃の疑問が、読みながら時々頭をよぎるが、そんなことを考えていられない。

 

同時代ゲーム」を読み切ったときのあの興奮感と、今回の興奮感は似ている。暴力的な側面がもたらす苦い興奮、取り扱う時代がまとう空気感の重さと遠さ、登場人物から発せられる、断片的でありながらその人物全体をどうしてもわかってしまう気になる言葉の数々、など、いま思うと、共通点があるのだな、と気づくが、そんなこともどうでもいい。全くこの小説の力を表すものにならない。

 

演技なのか、演技でないのか、自分なのか役なのか、そういった感情はだれもが抱きながら過ごしているのだと思う。そこの感度を少しずつ上げてゆく、または上がらざるを得ないときに、どう折り合いをつけていけばいいのか、わからない。わからないまま、舞台は続く。続けたいわけでは本当はないのかもしれないが、続いてしまう。のっぺりとした時間が延びてゆく。それをおもいだせ、などと言われる。思えともいわれる。

 

言葉を言ったとたん、自分の感情でないようになる。感情が言葉によって噓になるとかですらない。真実のまま感情は、もともとの身体の中にあった場を疑い、言葉によって出ていったあとでは否定される、ただ言葉と感情をいっぺんに失っただけの空のような身体だけ残る。まるで最初からなにもなかったみたいに。

町屋良平. 生きる演技 (p.355). 河出書房新社. Kindle 版. 

 

圧倒的に現実に敗北している、自分の身体がとめどなく悲しい。われわれは、いったいいつまで演技をつづけるつもりなのだろう?

町屋良平. 生きる演技 (p.364). 河出書房新社. Kindle 版. 

 

けれど、言葉へ辿り着くための道は、かなりオリジナルなものだとおもう。原民喜の言葉は、その道だけはオリジナルなものなんだと信じさせてくれる。信じるということだけが、だいじなのだとおもう。信じる内容じゃなく、信じるための道というのだけが、大事なのだとおもう。

町屋良平. 生きる演技 (pp.375-376). 河出書房新社. Kindle 版. 

 

衝撃的な事件のあとの、これらの言葉を読んでいると、これらが、まだそれでも無邪気さがある前半にあっても悪くない言葉のように思えてくる。しかし、もう、そうは読めない。そう読む演技を自分はもうできなくなっている。または、そういう演技が自分なのか役なのかわからなくなっている。その上で、その混沌に、不謹慎な感じで感動してしまう。混乱していること自体の事実に、生を感じてしまう。演技という生を感じてしまう。そこが、正直、やはり気持ち悪い。気持ち悪さで感情を鮮やかにさせてしまう喜びが正直ある。痛みで覚醒した、居場所を得た、役を得た登場人物のように。

 

生きていくときにどうしても拭えない、よどみ、を感じながら読み進めた。呪いでは特別すぎる。他人過ぎる。本当にちょっとのよどみくらいにあしらっているつもりの黒いくらい部分。そこに自分も周りも様々な意識が、記憶が、歴史が混ぜられていて、一時の場を形成している。その場所の意味、時間の意味を考え始めると、もう逃げ場はない。自分と他者は渾然として、もう、延々と演技を続けてゆくだけだ。それでいいと思っていたはずなのに、そうやって大人になってきたはずなのに、いま、大きく揺さぶられる。もう普通に空を青いとは思えない。それでもいいと、演技を続ける自分も、実際には悪くない。そう落としどころを見つけないと、とても息をしてゆけないから。でも、とことん揺さぶられている。

 

いつ読み返すのか想像ができないけれど、本当に大事な一冊になった。圧倒的な筆力というものを、常に響く重低音として感じながら読んだ。ほんとうに素晴らしい。本当に。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/