2日前にこう書いた
いつ読み返すのか想像ができないけれど、本当に大事な一冊になった。圧倒的な筆力というものを、常に響く重低音として感じながら読んだ。ほんとうに素晴らしい。本当に。
と書いたけれど、実はすぐに読み返していた。昨日の朝には読み終わっていた。何かが抜けて何かがのっそりと自分に入り込んだ感じ。感動が異なる色でやってくる。転調しているメロディが流れてくる、というよりも、もう、ピアノトリオだったものがオーケストラを従えてきたような感じ。圧倒的な重奏感。重層感。
見た覚えのある言葉を読み進むのだけれど、もはや同じようには響かない。見えなかったものが見えるように、見えていたものが実はなかったことに、今更に気づき、恐れる。正直怖い。恐ろしい。再読にならない。全く新しいものを読むかのごとく、とはいえ懐かしい着地点もあることがなおさら恐ろしい。
時間も空間も、自己も他者も、すべてが曖昧になりつつ、それでも、密度の違いのような、断続がありそうでなさそうな、連続していそうないなそうな、すべてがまぜこぜでありながらはっきりと色が、濃淡が違いそうな、場の複層性は、こんな風に感じされるのかと。平たく言えば、違う景色が見える、みたいなことなのかもしれないが、そんな簡単に終わらせたくない、癖になる毒々しさがたまらない。
夜闇から身をあらわし、つねに懐かしい姿でここにいる。
これだ。常にいる。いつもいる。どこにでもいるし、いない。絶対にわかりそうにないのに、とことん、正直、懐かしい感覚。感覚ではないのか、意識なのか、雰囲気なのか、空気なのか、はたまた場の歴史なのか。
未だに一番の言葉を拾い上げられそうにない。毎回読むたびにハイライトする文章は変わっていって、気づけばすべての文章をハイライトするのではないだろうか。
身体とは過去未来の声の集中するそういう場なのだから。だから自分のものじゃない言葉を演じる。それがただふつうに呼吸しているだけでも演出される人間という営為の連続なのだ。
長女に勧めたら興味を持ってくれたので急いで本屋に行って紙媒体で購入すると、さっそく睡眠時間を削って読んでくれて、お互い感想を言い合えたのも嬉しい。よく読めたな。読めた感じはしないだろうけれど(おれもしない)。
この不思議な感動は、どう表したらいいのだろう、なんて、つまらないことを考えるより、自分の背中でも見つめてみようとした方がいいのかも。
埴谷雄高の「死霊」をこよなく好む自分だけれど、同じようでおなじではなったくないこの一冊は、あの大変美しい桃色の装丁も相まって、本棚にずっと残しておきたい。