自分の骨格をなしているのは、1回生からなぜか始めてしまったボート部のコーチまがいの活動だった。教えることなんてありゃしない、けれど、仲間が少しでも早くなって、強くなったらいいじゃない、そんな感じ、いや、そんな言葉ではなく、単に、突き進められてやっていた。
そのときのS田さんの言葉が
「コーチみたいなものをやるんだったら、死ぬ気でやれ」
そして
「大事なことは、とにかく居ることなんだ」
の2つだった。
なにか、良くしたい、というのはおこがましい話で、とりあえずなにか、動かしたい、ずらしたい、変えたい、というので、あれやこれや考えて、伝えようとしてみたりするが、ほとんどはうまくいかない。ボートの動きはまさに円環そのもので、すべてがつながり、すべてが分断されている錯覚を常にもたらす。堂々巡りもいいところだ。
居ることの大切さ、というのは、あの19歳の頃から、今になっても、毎年、毎日、形を変えてやってくる。うまくいくときはほとんどなくて、うまくいかないケースの多様性ばかり増えてゆくけれど、毎日違う。ぐるぐる回っているけれど、毎日違う。
「コーチング」という言葉が流行って久しいけれど、その中に含まれる「ケア」と「セラピー」の要素、そして、コーチングというよそよそしい言葉を、自分の生々しい言葉に変えることは、未だにできていない。こんなに毎日考えているのにうまくいかない。常にこぼれ落ちる。
デイケアでの「日常」を綴った本著は、どこにでもある「日常」の大事なさわりを常に見せてくれている。いつでもどこでもある、ケアとセラピーの重要性。二律背反ではないし、それこそ、だれがだれに、という関係性すら常に揺れ動く。そんな当然のことを改めて見せてくれる大事な著作だった。
足踏みをしていることで焦るかもしれないけれど、それは、より高く遠くへ飛ぶための地固め、大事な準備期間なのだとおもって、存分に時間を使ったらいいんだよ、なんてことを、時々他人には投げかけるけれど、自分に投げかけなければならないし、そのために、もう少し自分のことを考えないといけない、そんなことも思わせてもらった。赤なのか、黒なのか、自分で見定められるのであれば自分で見定められる方がいい。見えてしまうよりも、多分。居る、ということの積極性は、植物を見ていたらわかるはずでしょうに。