Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

泥沼

泥沼に完全にはまっているのです。どうどうめぐり。どこかにこの円環から抜け出す点があるはずなのだけれど、何百回回っても見つけられない。ハムスターがゲージの中でリングを回している、そのリングから降りたらいいし、止まってもいいのに、なんか回してしまっている。そんな感じなのです。いや、うそです。そんなんでもないんです。いやはや。

 

ある対象に対するレベルを上げるか下げるか、そもそも保つか動かすか。どこにも筋があり、どこにも好みがある。正しさはやまほどある。問題は、常に「正しさ」には「その前提」があるのだけれど、前提も、山ほどあるということ、そこへの自覚、そしてそこへの覚悟。

 

それがないから泥沼と言いつつ、実際は自分の覚悟の問題だというところから逃げようとする。逃げられないし、こんな風に免罪符的なものを用意したりするのだけれど、何も変わるわけではない。いやはや、勝手な泥沼だなぁ~

 

寒いからってことにしよう!

 

って、逃げたけど、これだからいけない。と、書き直している。

 

結局、自分の中の原点のようなこと、駆動力を結局くれるもの、それを諦める、否定する、そうしなければならない現状に、諦めがついていないことが原因なんだとおもう。思う、って逃げてるだけで、原因だ、だけど認めたくない、でも、わかってる、ってぐだぐだ、な状態だ。

 

ずっと信じてきたもの、ずっと自分が好きだと思ってきたもの、ずっと自分が特異だと思ってきたもの、それらをすべて否定しなければならない事実と向き合うことが、こんなにも難しいのかと。体力気力的なもの、嫌らしい成功体験、社会的な「地位」とそこに同居する「責任」「義務」などが渾然一体となって「まぁ、そうはいってもがんばらにゃ」みたいな圧力となっている。それを振り払えばいいのだけれど、その勇気は根本的にない、そこもいらつくところなわけだ。なにしろ自分のことなのでいらつきは無限大。

 

原点なんて、取り直せばいいやん、という軽やかな言葉が舌の上で落ち着くことがあり得るのか、それだけの軽やかさを心底会得するだけの努力を払えるのか、そもそも自分の心持ちにどれだけの責任と義務を感じながら演技してゆくつもりなのか、ってことなんだよね。わかってる、わかっているけどさぁ、、と。

 

やりすごす、というやり方をとることにも、そこはかとない後ろめたさがあるのも、どうなのかと。少しでもよい方向に進むためには、

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/