Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

円環とポリリズムによる非直線かつ多次元な、軸を拒む歴史を受け入れること: 私が諸島である(中村達 著)

前回の続き

keikoba.hatenablog.com

であります。課題図書なのですが、大分先の課題なので忘れてしまうともったいないし、ここに書いておこうと思います。しかし何を書けばいいのかなぁ。とにかく読むことができた幸運に感謝しています。読み解けているかは別問題として、それでも自分なりに、とても感じるところがたくさんありました。

 

前回の2/7に書いた(第8章まで読んでいた)ところで、エリアーデのことを思い出していたら、「円環」というキーワードがそのあと出てきて、おおお!とおもったり(エリアーデといえば自分としては永劫回帰=円環、なので)、ポリリズムという言葉を表して文章の流れを書いていたら、第9章からポリリズムが重要になってきていたりして、おおおお!となったりしました。これは、どうでもよいことなのでしょうけれど、個人的な感覚として、少ない読書経験ではありますが、それらがつながるという感覚はとてもうれしく、読み方が少し立体的になるのではないかと期待したいところです。

 

多様性をどう考えるか、マジョリティであることの鈍感さをどのように訂正してゆけばいいか、いつの間にか身に染みついてしまっている「常識的な」ものの考え、たとえば歴史というものについての、通常振り返ることすらしないかもしれない前提について、どこまで揺さぶりをかけながら、多様な世界を多様なまま見つめてゆけるか、そういった、まさに今、とても重要な視点についての、大事な確認点をいくつもあげてもらいました。「他者」という存在、「歴史」というものの直線性が持つ暴力性、それに対するアンチテーゼとしての、小説などの力による円環的な受け入れ方、童話的といってもいいのかもしれない、そのような仕組みでしか、もしかすると受け入れることが難しいのかもしれない複雑な現実、それについて、たとえばカオスという概念に励まされながら援用すること、などなど、複雑としか言いようのない事象にたいして、どのように声を上げながら、その事象の輪郭を作り、揺さぶってゆくか、ということについて、観てゆくことができました。

 

自分の中でも、失ったことがないものが失われること、その重さをどう想像するのか、ということが大きな問いとして常にあるわけですが、たとえば、言語を奪われる、歴史を根こそぎ奪われる、ということについて、これまで考えたことはぼんやりとしてしかありませんでした。そのことに思いを少しははせることができるようになると思うので、そのことはとても自分のこれからの考え方に影響してくると思います。これは大事な時間でした。

 

自然科学に関することを生業としている身からすると、カオスの概念を取り込みながら、それを手段またはメタファーとして使ってゆくその試みは興味深く、誤配をネットワーク理論とつなげて展開している東浩紀氏の議論を思い出した。専門的な細かいところのノイズが含まれてしまうことは仕方ないこととした上で、こういった、自然科学的概念の受け入れは好ましいと個人的には思いながら読み進めました。マングローブのメタファーも自分には心地よく、しっくりくるものでした。

 

つまりスモールワールド・ネットワークは、他者へのつなぎかえの確率が0でもなければ1でもない、中間の値のときにこそ生まれるものなのだ。『存在論的、郵便的』の読者であれば、ぼくがその著作で、誤配について考えることは確率について考えることだと記していたことを覚えているかもしれない。人間社会をモデル化するために「確率的」な「つなぎかえ」を導入すること、その操作はまさに、哲学的には、人間社会の基礎を理解するために、コミュニケーションの誤配を導入したことに相当するものだと解釈することができる。

東浩紀.観光客の哲学 増補版(ゲンロン叢書)(p.201).株式会社ゲンロン.Kindle版.

 

自分の仕事としても、日本という生物地理的そして生物地球化学的に大変特殊なところでの仕事は、どうしても、「一般化」というものに向けては弱い発信しかできないと身にしみて感じています。しかし、本著で想定されている理想的なクレオール的時政学による、文化を見つめてゆくという行為、どこかが究極の、統一的な「答え」であるという考えを敢えて外してみたときに見えてくるものがあるはず。円環とそこに必然的に顕れる時間の流れとその永遠性、そこは、文学であれ、文化であれ、自然科学であれ、そして哲学であれ、平たく言えば「一つの究極的真実を追い求める」ことで取りこぼされてゆく多様な価値観に改めて目を向けて、弁潮法的な、「われわれ」としてのよりよい理解を目指せないのだろうか、と強く感じたのでした。これは、別に読んでいるローティーの考えにも沿っているのではないかなぁと思いながら。

 

一番心に響いたのは、この部分でした。

 

ブラスウェイトのミサイル、カプセル、そして弁潮法といったカリブ海思想から私たちが学ぶべきことは、私たちの意識が常に標的を探してはいないか、ミサイル的意識に支配されてはいないかと、自省的に自分たちの思想を何度でも問い直すことの重要性である。私たちは他者と遭遇する時、接する時、抱きしめる時でさえ、その他者を標的としてはいないだろうか。誰かを蹴落としながらどこかへ到達しようとするのではなく、真理を証明しようとするのでもなく、ただ潮の満ち引きに合わせて海をたゆたいながら、互いに手を取り合えないだろうか。

中村達.私が諸島であるカリブ海思想入門(p.152).書肆侃侃房.Kindle版.

 

これは、カリブ海文学に対する「カリブ海思想」の話にとどまるものではありません。多様性をどのように手懐けてゆくべきなのか、その中で公正というものをどう手触りを持って扱ってゆけるか、という大きな問題を抱えている今、このカリブ海思想による整理は、大変大きな励ましを与えるものだと感じます。また、もしかすると、このような、どうしても曖昧な解決法(というか解決に向けた歩み方)は、日本のような文化でこそ、受け入れやすいのかもしれません。我々の曖昧さを、多様なものへの強いまなざしと少しずつ変革するための、大事な基礎をもらったという気がしました。

 

カリブ海にとって、自らの存在論で自らを語る行為こそ言説の解呪であり、「他者」ではなく人間であると叫ぶための「詩的反乱」の手段なのだ。

中村達.私が諸島であるカリブ海思想入門(p.45).書肆侃侃房.Kindle版.

 

しかし、「自分の文化を保つため、ある種の言語を使う」とはつまり、自分の文化を「沈み込ませ」生き延びさせる奴隷たちの抵抗戦略なのである。

中村達.私が諸島であるカリブ海思想入門(p.106).書肆侃侃房.Kindle版.

 

単一性や血統、純粋性といった概念に依拠し集中することによって実現するものではない。むしろ、様々な人種や民族の多様性を肯定し、様々な文化の分散を総体と見なすことによって出来上がるのだ。言い換えれば、カリブ海における海面下的統一は、集中による一ではなく、分散による多なのである。

中村達.私が諸島であるカリブ海思想入門(pp.109-110).書肆侃侃房.Kindle版.

 

つまり、「勝者と敗者で成り立つ古い弁証法とは違う、新しい歴史を構築することによって」抗うのだ。

中村達.私が諸島であるカリブ海思想入門(p.125).書肆侃侃房.Kindle版.

 

暴力的な「断絶」(ruptures)を経験したことで、カリブ海の人々は堆積物のように歴史意識を徐々に継続して累積していくことができなくなったからである。

中村達.私が諸島であるカリブ海思想入門(p.126).書肆侃侃房.Kindle版.

 

逆に現存在が、その存在の根拠において時間的であるからこそ、歴史的に実存し、またそのかぎりで実存できる」のだとしたら、「断絶」を経験し、「集合的記憶」を喪失した「非歴史」的地域に生きるカリブ海の人々は、その存在の根拠を歴史性でもなく時間性でもなく、どこに頼ればいいのだろうか*

中村達.私が諸島であるカリブ海思想入門(p.127).書肆侃侃房.Kindle版.

 

彼らが大文字の歴史との諍いの中で試みるのは、ハイデガーベルクソン、アルヴァックスやリクールなどに頼ることではない。西洋によって独占的に構築された歴史哲学を解呪し、西洋の目が歴史として目撃することのできなかった歴史を、カリブ海特有の「乱雑で不規則」なリズムから生成するクレオール的時政学で語ることだ。

中村達.私が諸島であるカリブ海思想入門(p.129).書肆侃侃房.Kindle版.

 

それは、奴隷制に晒されながらも主体性を保ち続けたアフリカ人奴隷の人々が、カリブ海に染み込ませた円環性の文化である。西洋の直線的な歴史観では、この円環性を肯定的に捉えることができないのだ。

中村達.私が諸島であるカリブ海思想入門(p.141).書肆侃侃房.Kindle版. 

 

どこかに到達するのではなく、波に身を任せ、潮の満ち引きのように進んでは戻る。そこには偶然による出会いがあるのみで、真理のような到達点はない。また潮の満ち引きのように、円環のイメージを描きながら海をたゆたう。ブラスウェイトはこのようなカリブ海的な円環性の実践方法を、「弁証法」(dialectics)と「潮の干満」(tide)を掛け合わせて、「弁潮法」(タイダレクティクス:tidalectics)と呼ぶ。クレオライゼーションの経験を糧にしたカリブ海は、直線的に真理を目指す動きを拒否し、その稀有な混淆性を永遠の過程とし、その中で変化し続けるのである。

中村達.私が諸島であるカリブ海思想入門(p.149-150).書肆侃侃房.Kindle版.

 

カリブ海思想にとってカオス理論は、反復という現象が単なる同一のものの繰り返しではなく、常に差異と変化の産出であることを主張するための手段なのだ。

中村達.私が諸島であるカリブ海思想入門(p.181).書肆侃侃房.Kindle版.

 

しかし、この本を通して私が言い続けてきたことだが、「人間」をテーマとする理論が、普遍性を標榜しながら地域性を無視することがあってはならない。

中村達.私が諸島であるカリブ海思想入門(p.278).書肆侃侃房.Kindle版.

 

リゾームやヴェリション、カオスといった概念をもちいて、差異や異種混淆に開かれた理論を提供してきたにもかかわらず、男女性別二元論に基づいた異性愛的規範に依存しており、結局自分たちが批判してきた純血主義者たちと同じ穴の狢なのだ

中村達.私が諸島であるカリブ海思想入門(p.279).書肆侃侃房.Kindle版.

 

 

 

 

 

 

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