Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

内向きなラディカルさと罪を受け入れることについて:第5回 アシジと僕の不完全さ

前書きを書いてみたけれど、心の動きが薄れるだけなので、いらん言葉は抜きで、鳥羽和久さんの言葉に向き合ってみる

 

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鳥羽さんの文章の中でも、こういった枠組みでの文章にはリズムがより強く感じられるとおもう。今回の文章では、旅の情景と、内面的な視線の入れ替わりが弛緩のリズムを作っている。そして読み進めると、旅の情景がもたらしている緩やかな時間の流れの中に、実は濃縮された思考の断片が見え隠れしていることに改めて気づく。ちょうど聞いていたキースジャレットトリオの曲にある、テーマが転調しながら、リズムを崩しながら移っていく時の緊張感を思いながら読んでいた。

 

とにかく特に衝撃を受けたのは次の箇所

彼が改革ではなくむしろ旧態依然の方法を徹底するというやり方で、組織の内部に極めてラディカルな思考を生み出すに至ったことは示唆的である。

僕たちがあらゆる専門家、例えば裁判官や検察官、政治家、医者や博士たちを批判するとき、専門性という地層に対する敬意を失っていないか。単に人間を批判するよりも、専門家の専門家たる所以を守る、そういう「保守」の在り方こそが改革よりずっとラディカルなのではないか。彼の姿勢からは、そんなことを考えさせられる。

つまらない言い方だけれども、組織を変えようとして組織を出るのではなくて、むしろ組織に残って変えるということがある。そのやり方はあまり評価されないと思っているので、そういう頑張り方をしている人に、その頑張り方はすごいと思いますと伝えるようにしている。この一見わかりにくい、内部に向かうラディカルさ、「保守こそ前衛」といったようなことが書かれていて正直うれしくなった。内部に向かうラディカルさを自暴自棄という要素を捨てて保つ人は本当に希有だと思っている。冷たい情熱がそこには必要だ。

僕はいままで、苦しいことを認めることができる、という可能性自体に気づいていなかった。

しかし、罪というのは必ずしも実体を伴うものでなく、自らの不完全さに対する対処を誤るということなのではないか。自らの孤独を深めることをせずに、一時の享楽に甘んじるということなのではないか。

行為を誤ることで満たされない。これを繰り返して神を遠ざけることは不幸だ。そうやって僕たちに不幸を呼び込むものを「罪」と呼ぶ。

一方で、僕たちの不完全さは、それ自体は罪ではなかった。僕たちの不完全さは、僕たちを愛で満たすための器(うつわ)そのものだった。

これはすごい。すごいとかやべぇ、とか語彙力・・なのはわかってるが、うわ、、と声を出してしまった。苦しさは人から言葉を奪い、憎悪を生む事がある。そのことでさらに苦しさが増す。「ひとにやさしくしたいけど、それがてんごくにいきたいからってなったらそれってよくないことだからどうしたらいいのかわからない」と幼稚園からずっと考えてきている自分にとって、この文章は、自分の中の「罪」とか「完全さ」を根底から揺るがすものになり得るとうっかり感じてしまった。受け入れられそうにない、とおもってなんとか手懐けようとしてきた「罪」が、「自分の不完全さ」が、目の前に手触りのあるものとして、触れていいものとして顕れてくる気がする。実体を伴わない罪が手触りのあるものとして顕れてくる。これはかなり怖い。喜ばしいだけに怖い。どう考えたらいいか、ゆっくり咀嚼しないと食あたりを起こしそう笑。苦しいことを認めていいのだろうか、と正直動揺している。

 

ああ、シンポジウムの時間だ。いってきます。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/