Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

まだ落ちれる

さて

 

苦手なものしかのこっていないけれど、苦手と思っていたってその程度はたいしたことがなかったりするわけで、とりあえず5分頑張って鼻つまんでやってみたら、なんだかなんとかなるという恐ろしい人間の性が、今や脳科学的にも証明されているんだし、素直に挑戦してみたら良いのよ。

 

うまくいかないことがある。できないことがある。そのとき、相手も自分もいっぱいいっぱいなのだから、新しいことを始めるならば、古いものを捨てないとダメ。その入れ替えを必ずやるようにすること。どんなに「まだ余力あるでしょ」とおもっても、その考えが間違っている可能性がある。あるなら、まずはきちんと+1なら-1とする。それを仕組みにする。そのことで、相手(そして自分)の資源の使い方を尊重できるし、何よりも-1するということで、どうしてその活動が必要なのかを徹底的にかんがえることになる(なにせいっぱいいっぱい=すべて今手持ちの活動が必要と思っているわけだから、そこから-1するというのは、とてつもない考えの変化が必要になるわけで)。足すのは簡単。引くのが大変。経営の本をちょっと読めば分かることだけど、ほとんど自分は分かっていなかったし、認識していなかったし、それに基づいた行動にはなっていなかった。そこを変えよう。

 

電話が苦手だ。本当に苦手だ。震えるくらい苦手なんだけれど、でも、予約のために電話する。つながらない。weblogで見てみると(こちらの検索能力は極めて高いので店主のweblogを見つけられる+過去のちょっとしたお知らせを検索できる)、お休みじゃないか。ほっとする。楽しい集まりを作ろうと思って予約するのにこの心の重さ。メイルばかりで電話しろよと毎日思う。本当に親しい仲間にしか電話ができない(仕事でも)。これは致命傷なので、このことで被る被害は受け止めてきたつもり、だけど、自分だけじゃないんじゃないの?被害を被っているのは?と、いまさら、はたと気づく。

 

そもそも、もうとっくのとうに、「自分個人」での活動はないのよ、という当たり前のことにまだ気づけない。

 

困っている人がいるのに全く動けない状態になってしまっている。なにがつらいかといえば、動けないこと。それはごまかしで、動かないこと。動こうと思えば恐らく動ける。いや、絶対に動ける。動かないと動けないをごちゃ混ぜにしてごまかそうとするけど、全てお見通しだということにたいして、愛想笑いをヘラヘラする。最悪やんか。それをこれまで何度とみてきて、あれはいけない、とおもっていた状況になってる。

 

できないまでも足掻きたい。いいわけしてうごかないより、とにかく動きたい。あほみたいな筋でもとにかく動きたい。迷惑かかっちゃうけど、それでも、困っている人がいて、困っている事象がある。そこにはなんとか、何かしたい。たくさんのことを見過ごしているんだから、せめて1つ2つくらい、何とかしよう。全てなんてとても無理だし、寄付したいなと思っても財布を見たら躊躇せざるを得ない。でも、そうじゃなくても、直接じゃなくても、間接的でもいいから、なにか、すこしでも。生態学で間接効果とかならうやん?ってことで。

 

もう一歩落ちたら、もう、お手上げ、すべておしまい、になるのだと思うけど、まだ一歩、もう一歩、落ちる余地が残されているなぁとおもう。それが励ましになるかといえば大変微妙だけれど、余白は余白。それをどう塗るかは自分次第ということか。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/