Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

知らなかった、の回避

知らなかったので大きな誤解をしていたことはいっぱいある。特に印象的だったのは

 

* 長距離走の人って、中盤楽ちんにはしって最後頑張るのだと思ってた。最初から最後までギリギリで走るなんて信じられなかった(中学の時)

 

* 卒論書いたら「日本語にしてから持ってこい」といわれた。日本語で書いたのになぁ、何言ってるんだろう、っておもった。

 

* 論文書いたら全ての文が手直しされて返ってきた。ほんまほぼ全ての文になにかコメントがついてた。自分の作文がテキトーだったことを思い知った

 

できていると思っていること、知っている、とおもっていることが、ことごとく間違っているというか足りない、ということだった、という経験は大事だと身に染みて思う。そして恐ろしいのは、これは、答え合わせをさせてくれるから分かる、ということで、答え合わせをする機会は大人になるとほとんどないと言うことだ。そしてもっと恐ろしいのは、答え合わせをする機会を自ら失う、自ら無視することがあることだ。「いや、頑張ってるし」とか「そうはいっても大変だしさ」とか。言い分けは星の数ほどある。

 

でも、答え合わせしない限り、絶対に誤解は、間違いは、知らなかったと言うことに気づくことはない。

 

気づかないと気が楽だ。間違っていることに気づかないのだから。間違いを正すことに努力しなくて良いから。しかし、どこかで「裏切られる」。その方が圧倒的にまずいことに後から気づいても遅い。

 

その機会を提供し続けることが大学人としての務めだと思うけれど、どこまで受け取ってもらえるのか、というところは、どうしても気になってしまう。10投げて0でも仕方ないと思うけど、100投げて0となると、さすがにつらい。冗長性の塊である教職であってもやっぱりつらい。つらいだけならいいけど、本人が「裏切られる」瞬間が来ることが分かっていてそれが回避できないのは、本当にまずい。まずいというか、正直、つらい、の感情がただしい。

 

そう考えると、教職として大事なことは、方向転換のきっかけを与えることにつきるのかもしれない。一直線に延ばすことは今となってはたやすい。問題は曲げること、曲がること。立ち止まって違う方向を向いてみてもらうこと、ということか。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/