Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

そうだよな、、、

comfortable zoneにひとたび入ると、うれしくなっちゃうよな、、、たとえば「自分の話が通じる」空間とか。認められている、自分のやったことがわかってもらえる、って隠していた承認欲求が満たされると、隠していただけに喜び暴走するよな。

 

 

でも、それじゃだめなんだよね、、、少なくともこれから未来がある学生さんにとってはだめだと思う。その「自分の範囲内」で指導教員がいい、と限ってしまったら、学生さんがそこから抜け出せるのは至難の業だし、ということは端的に言えば自分のコピー的な仕事しかできなくなってしまう。仕事より何より自分と同じような視点しか持たない人になってしまう。それは教育という点では大失敗だと思うんだよな。

 

 

だから、「不快」なところへ出て行くくらいでちょうど良い。しんどいけど。見通し立たないけど。でも、そのリスクをしっかり負わないと、最後の最後は大丈夫、なんとかなるように考えているし、考えて実行するし、というリスクを負わないと、成長はない。

 

 

ただ、、、限られた学生生活の中で、枠を設定すること、その枠の中を塗ること、その枠を広げてゆくこと、という3つが重要だとしたときに、特に後の2つが重要だとしたときに、どういうバランスで自分の資源(時間、能力、資金など)をつかって自分の目指す高みへ到達するか、には、やり方がいろいろあって、リスクを負わずにとにかく上れ、上ったら見えてくるものがある、というのもわかる。言い換えれば、先生の手のひらの中でしっかりやるのだ、先生はいろいろ見えているのだし、言われたとおりのことをまずはしっかりやるのだ、そうしたら見えてくるものがある、と。確かに卒業論文にはある程度そういうところがある、ということは否定しないし、自分もそういう立場でものを言う場面もある(ここもバランス)。

 

 

そして、なにより、その方が「業績」は上がる。これは間違いない。「効率」は高い。回り道している暇はないのだ、といわれたら全くその通り。

 

 

しかし、、、だな、、、、

 

 

と、ここの「しかし」のなかに自分の老害物質を強く感じるのでありますよ。自分自身の「成功体験」が美化する「歴史」からどう抜け出せているのか、いや、抜け出せていないじゃない、というところをどう見つめるか。

 

 

とかね。。。。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/