卒論の時、自分なりに一生懸命やってきた、つもり、、だったのだけれど
予定していたことの4割くらいしかできなかった
その4割で言えるだろうと思っていたことが10あったら、そのうち2くらいしか言えなかった。しかも「当たり前」みたいなこと
だった。いや、実際には
全く予定予想していなかったことが1つ言えた
のもあった。
愕然とした。統計なんてかけたら何も言えない(これは修士での話)。なんてひどい有様だ、と。
だれも、「でも、言えることが幾つかあるだけでもすごい!」とは言ってくれなかった。で、同僚のHと、そう言い合えるようになるまで勝手に苦しんだ(Hは全然違う内容を研究していて、しかも難しくて、僕が本当にやつの卒論の凄さを理解したのはD2になって、ようやくだった)。
多分周りも言ってくれていたとはおもう(先生は卒論も修論もいなかったけど)、が、僕らが、自分たちで勝手に苦しんで、何もないわけじゃない、と思えたのは大きかった、とおもう。ゼロじゃない、言いたいこと、証明したいことの7割はどうにもならないけれど、ゼロじゃない、それを大事にしなければ、と。
残念だが、この数年、勝手に苦しむのを待てずに手を差しのばしたり、とにかく形式だけ整えて、こういう、本質的なところで苦しむのを避けている。避けることで、見た目の完成度はあがる。あげねばならないから。
しかし、いまのラボの修士学生には、全員にたいして、おそらく、厳しくできる。彼らは嫌がるかもしれないけれど、登って初めて理解できる山はやはりある。そこには、やっぱりむりやりにでも登らせる義務があるんじゃないかしら、と。
論文かけ!っていうことなんだがな笑