人間という存在の愚かさを含む大きな可能性について、様々な視点からの示唆を受けた上で、一つの概念、信念として自分自身の軸をもつ、垂線を降ろす、そのためのもの、ではなかろうか。
たんなる知識の集合では教養とは呼べないのは自らの軸との呼応が認められないからである。しかし、呼応が、つながりが、高次への結晶化が、そうそう容易に成せるはずもなく、ただひたすら、闇雲に、いろいろなものをいろいろに感じ取り考える、そういう苦しい時間が不可欠であろう。
その時間を創り出す装置として大学や大学院は、今だ魅力的であると思いたい。