Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

Free Soul. the classic of Terry Callier

Terry Callierを聴いたのはいつだったのだろうか,,,と自分のwebsiteを検索したら,2004年の4月22日。10年前ですか,,,,


なんとなしにその日のpostを再掲。何も変わってないけれど,何もかも変わっている。

                    • -

本日も(あ、今週は火曜からずっと8:30出社です)、午前中業者さんに見積もりやらなにやら。お昼会議を経て、メイルなどいろいろちまちまやってたら、5時。定時にオフィスを出て、ライブに行って来ました。うーーん(以下略)。

本日の論文は、Natureの葉っぱ論文か。たしかに気候の違いに対して、葉っぱの特性はそれほど大きく変化していない感じはする。Reich、やっぱりすごいなぁ。葉のphenologyと言えば、Peter Reichなので、僕の中では。

今日珈琲を飲みながら考えたこと。そして酔っぱらいながら、みなとみないに乗って考えたこと。すべてはTerryのあの歌声とちょっと飲み過ぎたビールのせいなのだ。

僕らは「客観」に至ることなんて出来るのだろうか。社会科学は、その名に「科学」なんてまやかしをつける前には、自ら立ち上げて行く思想を持って、「客観」という見えない目標に到達しようと(または、そのような夢を人々に抱かせようと)していたのに、潔かったのに、「科学」なんて怪しい言葉をつけてしまって、その長所を台無しにしまってきているような気がする。一方我々のやっているような「自然科学」は、さも「客観性」をもって物事を見ているようなふりをして、その「考える方法」を押しつけてきたような気がする。

たとえば、環境問題、もっと単純にして、ある人が考える、守りたい(守るという言葉の定義は又別の問題だとして)環境について、それをどうやって決めたのか、分かったのか、認識したかを知りたい、それを知ることによって、その思考の流れを追いかけることによって、その人が持つ環境への意識というものに到達できないか、と考えているプロジェクトに参加しているのだが、一方でゲシュタルト心理学の立場に立てば、「部分の総和は全体に等しくはない」ということであり、僕はこの考えに賛成である。だからちょっと矛盾しているような感じを受ける。思考の流れを追跡することは、還元的なアプローチに頼らざるを得ず、そこでは大事なものがこぼれ落ちてしまうだろうから。

賛成なのに、なぜそんな還元主義的なアプローチを黙認しているかと言うことになれば、それはカール・ポパーも還元主義を完全に否定しているわけではないはずだ、ということ。還元主義をこけ落とすのは簡単なのだが、だからといって手をこまねいていて良いのか?と言うことに対するアンチテーゼを持ちたいと言うことなのである。

と言うことをずっとずっと考えているのだが、良い例が浮かばなかった。Terry Callierのまさに色のある音楽を聴いていて、ふと思った。

ゲシュタルト心理学、でgoogleを叩くと、「メロディは単なる音の寄せ集めではない」というたとえがあって、上手いたとえだなと思った。僕らが知りたい「環境への思い」とか「環境の認識」、「環境意識」と言ったものは、メロディであって、それを、CだC#と言うものを寄せ集めてもメロディにはならないだろう、そういわれるとそういう気もする。

でもですよ、しかしですよ、今、いやこれからの社会をしょって行く若人に向けて僕らが残して行くべき哲学というのは(おお!なんて大仰な)、例えば環境保護といったあやふやな哲学に対して、もうちょっとソリッドな、重みを持った、でも「当たり前」に近いような「考える方法」を提示することだと思うわけですよ(こばは、「環境保護論者」ではなく、「環境を保護」するのであれば、その「環境」とか、「保護」とかをきちんと考えないといけないし、そういうものを考えるための材料をきちんと冷静に提示しなければならないと考えて科学をやっている人間です。だって一大事ですから、環境を守ろうなんてことは)。

それを、メロディとしてたとえれば、ああ、確かに、ド、とか、レ#とかを合わせていてはメロディにはなりませんな。でも、それを合わせなければメロディにもならんのではありませんか?そしてメロディというのはランダムに出来るものではないですよね。ちゃんと法則がありますよね。僕のような凡人には、その法則を指し示すことは難しいですが、音楽理論というものさえありますよね、和音のルートは押さえとけ、とか、メジャー、マイナー、ブルーノートとか、ほんとうにいろいろあるし、それを学んで良いメロディを作ろうと勉強している人も、勉強した人もたくさんいますよね。その理論を僕らは明らかにして行かなければならない。僕らが校歌を作らなければならないときに、少しでも、多くの人に「良いメロディだね」と思って親しんでもらうようなメロディを作らなければならない。それには、ドレミファソラシドだけでなく、どんな楽器の音色を、どんなリズムで、どんなテンポで、どれだけの人数で、奏でなければならないのか。校歌を作るという要望があるのに、「いやぁ、音楽はてんで分からないんで」といっていても始まらない。「ドの次はレなんだ!」と言うことが当たり前の状態なのか?いや、僕らはそのレベルまで言ってすらいないと思っているのです。だから、「ドの次はなんなのか?」を知るための還元的なアプローチがまだまだ必要だと(言い訳ではなく)考えているのです。「ああ、ドの次の音はレで、だから、この音はレなんだ!」と分かることで前進できることはいっぱいある。少なくとも今の我々にはたくさんあると思うのです。

今日メイルを打った中で、「客観へ至る道など無いけれど、主観を多数必死で集めて、必死でその毒を飲み込んで出てきた多数の主観の1つ集まりの結果は、客観に一歩近づけたものになるかもしれない」というようなことをかけて、実際相手の先生もそこに反応してくれたのがちょいと嬉しかったり。「客観」という言葉もちょっと使わないで頑張ってみよう。「合意形成」はここ3年くらい自分の言葉としては使っていない。だってそんなの無理だもん。その言葉を超えたtermを新たに作らないと、いつまで経っても人間はこのまんまだよな。

ええ、そうです。僕は考える方法を考えたいんですよ。ほんとうに。その多様性を上げないとだめなんだと思うんですよ。

酒が入ると文章の量は多くなるなぁ。。ま、備忘録ってことですからね。同位体だけじゃなくってこんなことも考えないといけない(考えている)んですよ、ってなことで。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/