Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

東京の真ん中で




春の空を探しながら、選んだけれど選びきれなかった音楽を、DMPに任せて聴きながら歩く。忘れていた旋律が流れ始めて、昔と同じ、全く同じところで鳥肌が立つ。その事実に今まではほっとしていたけれど、今回はそれ以上に、どうしようもなく感動してしまい自分をもてあましてしまう。


これまで、その真摯な態度を通じて、励まされてきた時間がどれだけ豊かなものであったか、その圧倒的な重量が、忘れていた旋律とともにどっと胸になだれ込んできてどうしようもなくなる。人との別れというのは、本当のところ別れというものはないとは頭でわかっているのに、やはり寂しい。失ってみてはじめてわかるということが人生の本質であるのならば、ちょっとだけ人生というものを恨みたくもなる。Between grief and nothing, I'll take grief.というフォークナーの言葉は今の今まで思い出せなかった、ということは、思い出さなくても良かったということなのか。なんて幸せなことか。


僕にとってあこがれの地は、やっぱりどぎまぎしてしまって受け付けすらスムーズに通ることができなかった。いやはやなんとも、へたれというか。


涙は疾走する。旋律は追いつくことができないまま空を舞った。音楽というのは、そのものを聴いているのではなくて、その音楽とともにあった時間を、空気を聴いているという、陳腐な表現に至ってしまう。難しい「上手に思い出すこと」は、もしかしたらたった1つの音によって、可能になるのかもしれない。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/