Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

いろいろ分からない、という状況に対して

いろいろ分からないときに

1 分からないから諦める

2 分からないから分かるようにする

ってことなのだけれども。

 

1はこう書くと身もふたもないのだけれど、他にも取り組む事象がたくさんあるときに、諦める決断も大事。

2は確かにその通りだけれど、じゃあ、分かるように「努力」する、というところにも大きな落とし穴。

 

3 とりあえず考え込む

 

ってのも実はある。「思考停止」と捉えられることが多いし、「実行力ない」と言う評価を下されることも多い。ただ、一方で、状況・前提が変わって、いつの間にか分からないものが解決(分かるという解決でないこともある)することもある。「じっくり待つ」と同じように判断される結果となる。

 

ただ、どうしても 3 は厳しい。何もできていない感じがどうしても強いから。行動がみえないだけでなく、実感としてない。考える努力、汗をかいて考える、というのは、外からも、自分からもどうにも評価しにくいものなんだとおもう。せめて書き物としてでも何か残せばわかりやすくなるのかもしれないが。

 

活動を起こそうとしても、ほとんどの場合否定されるか、反応がないか、ということになるわけだけれど、自分が他者にたいしてどうなのかといえば、同じようなことをしている。他人は一般、自分は特殊、という考え方から離れるのは本当に難しい、というか、無理だと諦めた方が恐らく健全なんだと思う。

 

 

「自分が間違っている点がかなりあると思うので教えてほしい」

 

この言葉を、本当によく使うことになっている。

 

のだけれど、このお願い、かなり無理筋ではある。

 

 

そもそも、間違いを直せると思われているのかというところから立ち返らねばならないのに。適当な英語をしゃべっていても誰も指摘してくれる人はいない、あの状況からもっと自分は学ぶことができるはず。だれも指摘してくれないんだよ?ってことの危機的状況をどう打破するのか。教えてもらわねばならない仕組みに自分を組み込むとか(たとえば英会話スクールに通う)、客観的な評価を受けるとか(TOEIC受けるとか)、諦めるとか。

 

せめて、簡単なこと、たとえば同業多種をちゃんとみる、あちらの良いところをしっかりと抽出する、ということをすべきなのだけれど、何もできていない。ここは「危機感が足りなくて動いてないだけ」といわれても仕方ないのでは。

 

自分が間違っていることに気づかない。局所最適での合理性にとらわれて、上位概念からの俯瞰的な思考ができていない。ここは、本当にどう訓練したら良いのか。それともやはり諦めることが様々な点を総合的に考えたら良いのか。

 

考えるべきは、少しでも自由度を、可能性を広くとるようにしておくことか。そのために何を準備すべきか、か。

 

ふむ。。。。

 

ふむ、、、、といえばmmhmmを試したのだけれど、やっぱり授業で使うには解像度が低い?pptをuploadするとフォントがダメになる?今のところ自分の授業では使えないな。。。。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/