Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

ぼんやりとしたしんどさの裏側

今日は面白いzoomに参加させて頂きました。で、整理できたこと。かみさんへのメイルを改訂したものを覚え書きとして。

 

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一言で言えば、余裕。どうやって個人、組織、社会として余裕を持つか、というのが、なんでうまくいかないか、なんでしんどいのか、の根本的な問いになるんだと思いました。
 
そのときの余裕を生むのが、個人として自分の生き方に責任を持てるかどうか。自分に責任をとれるかどうか。どちらにしても結構重い言葉になりますけど。
 
責任を取りにくいのです。責任の取り方がわからなくなっているというのはよく言われることですけどね。
 
なぜか。
 
責任を取る取らない=リスクを取る取らない、という変換ができると思います。ここで、どうしてもわれわれ、リスクはない、ゼロリスク、という感覚が抜けません。正常化バイアスという言葉がこの10年すごく一般的になったとはいえ、それでもリスクはないとなんと無しに思ってしまっているとおもいます。その状況で、万が一リスクがあったら、、、と考えることはかなり難しいのではないでしょうか。そして、考えて見て、、、、リスクがあったらどうしよう、こわい、どうしていいかわからない、リスクを取るってどういうこと、、、そうだ逃げようになってしまうのではないかと思います。そうやってゆくことで、自分のやるべきこと、やりたいことからなんと無しに逃げてゆくことで責任を取ることから回避してゆけるわけです。その結果、つねに生きるのは他人の人生(死ぬのはいつも他人、って言葉もありますね)。規範性は常に外部、と言い換えてもいいと思います。その結果は、自分に責任がとれない、自分の基準で判断しない、自分の人生を生きない、そういう言葉になります。
 
自分に対して責任がとれなかったら、、、というか、実際はとれないのかもしれないけれど、とります!と言い切らない限り、自分に対して余裕は生まれない、、、、ということだと思うのです。そして、一人一人の個人が、それぞれで自分の生き方に責任をとれないなら、リスクをとれないなら、規範性を自分の中に持てないなら、余裕がないなら、どうなるか?様々な「自分の」判断や意思は、外部に、他人に、組織に、世間に委ねることになります。しんどいよね。。。。そりゃ責任の所在はないし、不安定だし、どうしようもない、、、です。その結果、間違ったとわかっていても謝れなくなります。だって自分に責任取らないから。そしてそれが余裕のなさに繋がる。そして「間違っちゃいけない」なぜなら間違ったら責任とれないから、、、そしてそこからなぜか「自分は間違わない(はず)」、だって間違うのは困るから?!?!という飛躍が生まれるのだと思います。
 
多様性という言葉に対しても、自分に責任がとれない状態でのこの多様性という言葉は「自分と関わり合いのない対象」としての、違う、カテゴリーの違う人、みたいな感じにしか到達できないと思うのです。でも、本当の意味の多様性はそうではないでしょう。自分も相手も違う考え、違う能力があり、その上で、ではどうやってなんとかやっていきましょうか?というところのはずです。責任がとれない=自分の輪郭がはっきりしない、といいかえルことができると思いますが、その場合、自分の輪郭がはっきりしなければ相手の離隔がはっきりできず、交わることも反発することもままならない状態になります。これはまさに薄っぺらい、うわべだけの「相互認識」そして「相互無関心」へと繋がるだけです(それでも多様性は見た目保たれるから)。でも、多様性って生み出され続けるものなんですよね。staticじゃ全然なくて常にdynamicなもので、、、相互無関係な状態での多様性って、どんどん失われる方向にしか行きません。
 
 
ということで、いろいろ繋がってちょっとすっきりしました。ずっと、変な個人主義、責任の取り方、ゼロリスク、多様性、とかぼんやりとつなげて考えていたけれど、今日の若い人の話を聞いてちょっとまとめることができた気がします。
 
 
余裕を持った上で、邪魔しない。汚染しない。その大きな目標に向けてどう努力してゆくことができるのか、それを考えないといけません。もう考えている時間はないのだけれどね。。。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/