Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

意思決定、そして行動

自分たちの状態を、ある、認識したくない状態である、と判断し、別の状態へ変容するための、かなり自分たちの活動を制限し、注力部分を明確にする対策を行う、ということ。自分自身を振り返ると、恥ずかしながらうまくできているとはとてもいえない。

 

 

「悪くなっている」証拠はいくつかある。決定的に数字で見せつけられないかもしれないが、表を作ろうとすれば数時間でできるだけの数字は集められる。多くの場合割り算するだけだ。全体のうち何%が「まずい」状態なのか、とか、期待していた数字(これが表に出てくることがないのがごまかしの大きな所)にたいして、実数がどうであるか、とか。

 

 

なんとなくこれくらいだろう、という数字、、、は、多くの場合数字として明確では全くないことが多い。そして得られた数字、、、たとえば具体例として研究会を開いたときに実際に参加してくれた人の数、にしようか、については後付けの解釈が様々内行われ、係留バイアスも正常化バイアスも、何もかもが総動員されて、「ま、そんなもんじゃないですかね」になってしまう。最初は20人と思っていたら5人だったでしょうが!それは認めなくないから、いや、10人くらいかなと思ってましたよ、なんて言っちゃう。言っちゃうねぇ、、、、、

 

 

それがつもりつもって、いつか崩壊する。これもまた「いつか」だからたちが悪い。自分たちは逃げ切ろうなんて思っていないのだけれど、結果として逃げ切りを図ろうとしている人になっている。若者からはそういう人に見えている、のではなく、若者が見ようが年寄りがみようが、そういう人になっている。なってしまっている。そこにも無自覚である。いや、無自覚ではないのかもしれないけれど、自覚を消し去るほど「こんなにやっているのに!」という感情がある。やっていること自体は嘘ではないのだけれども。

 

 

そして、自分の外部性も薄れてゆき、さらには外部も何も言わなくなる。安っぽい自尊心だけが弱い弱い引力を保ち続け、しかし超新星爆発を起こすだけの力はなく、ただ、ぼんやり、小さめに光るようになる。

 

 

それでもいいのかもしれない。光ってるだけ。なくなっていないだけ。そこは、それでもいいじゃないか、と、でも、啖呵を切る必要があるんじゃないか?だれにって自分に。

 

 

「20代はできることで評価される。30代はできないことで評価される」と聞いてきたけれど、では、そのさきは?「40代は何をやっても評価が下げられる。50代はやらないようにしても評価が下げられるが、開き直るのでむしろ楽になる。60代は聞く耳全く持たなくなり一部思い切ったことができるので評価が上がる可能性がある」そんな感じなのだろうか。

 

 

とにかく、人がこれが大事だと思います、という訴えに対して逃げずにいたい。八方美人が崩壊してもいい。崩壊どころか爆発してもいい。全方向に対して大事だというベクトルをそとから突き刺してもらって、それに返すベクトルを投げたい。自分という外郭は、そのベクトルの束でぼんやり見えてくるようなものでいい。しっかりあるなんて自己は自分にはどうせない。なくていい。終わった後にあとからぼんやり見えてくるもので十分だ。ただ、そのぼんやりみえてくるものが「信念」みたいなものと等価であるように全力で努力したい。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/