Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

ちょっとしたこと

知らなかったら仕方がないね、というのは勿論あるのだけれど、その裏には、なぜ知らなかったのか、という大きな問題がある。単に、知るチャンスがなかった、というのであればことは簡単。問題は、知るチャンスがあまたあったのに、それを毎回のがしてしまっているのではないか、ということ。何故他の人は知っているのに知らない?とストレートに言ってもいい。


学生から社会人になるときに、例えば服装の問題がある(僕にいわれるとはなんとも、、な話ではあるが)。スーツを学生さんが来ているときに、注意することがあるのだけれど、それは、学生と社会人、大人と子供の狭間にいる彼らと接している「大人」として、教えておかねばならぬことがある、彼らにとっては教えてもらっておかねばならないことがあるということの認識を共有したいからなのだ、、、、っておおげさだけれど。


例えばジャケットやスーツの一番下のボタンを止めないことは、ちゃんとスーツという物のシルエットを見れば分かる、、、のかもしれない。しわが寄るから(女性用は違っている、、とおもう)。ただ、僕のようなそういう感度を、レセプターを持たない人には、「常識」や「マナー」で枠組みを与える必要がある。そして、それは知っておかねばならないし、教えておかねばならない。年に数回しかスーツを着ないどころか礼服に黒いスニーカーや白い靴下を合わせることがかなりの頻度であるコミュニティーにどっぷり属している私がいうのは全く恐ろしいことだが。


もっと大事なことは「そういう知らない、しかし大事な、守らねばならない物があって、それを自分は教えてもらいたいと思っている状態にある、そして教えてもらえている関係を自分は作ることができている」ということなのだとおもう。実際、どれだけの人が間違ったボタンの止め方をしているかは、降りる駅、乗る路線でだいぶ違う。実は年齢にはあまり関係がなかったりする。これはなかなか興味深い。


「公」の場で、そういう所に気が回っていないということは、その人が「知らない」というだけでなく「知ることができない」ということなのだということを暗に意味していると思う。知らない、気づかない、ではなく、知ることができない、気づくことができない、そして気づかせてもらう人間関係を構築できていないということ。


勿論こういうことは星の数ほどある。だから、問題なのは、すべてを知ること、ではなく、そういうことがある、自分には知らないけれど知らねばならないことがある、ということを常に意識すること、そしてそれを実現するための環境を作るために自らアクションを起こすこと。そして、そのための素材は、気づきのための材料は、どこにだって転がっている、ということ。服装がどうとかいう、表面的な問題ではない。知識を常に提供してくれるというような空想環境に依存し続けて、知らないことを空想環境のせいにしてしまうのか、それとも足りない物があることを想像して、それを得るために、自ら自分や自分の周りの環境を変えてゆくことを考えて行動しているのか。もっとストレートにいえば、自分のせいか、他人のせいか、どちらと考えるのか。社会が必要としている人材がどちらであるかは明らかだ。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/