Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

答え合わせの機会を失う例

たとえば、ある会の会費を下げるという提案。一般的に、会費が下がれば会員のメリットになる。なる。絶対になる。短期的には。またはある狭い視野の中では。

 

けれども

 

* どうして今、会費を下げられるのか?
* そもそも、今の会費レベルの根拠は何だったのか
* その会費レベルの根拠となる考え方、特に方針、そしてタイムスパンはどうなっているのか

 

そして

 

* いったん引き下げた会費を上げることは大変難しい(論理的には、ではなく、心情的に)と言うよく知られている・感じられていることを認識した上でのことか。
* 繰り返しになるが、どれだけのタイムスパンで物事を考えているか。そして、より重要なこととして、そのタイムスパンが共有されているのか。共有されている状態での議論となっているのか

 

ということを考えないといけない。その上で、本当に、一見、全くもって是、であることが、本当の本当に、全体を見て、長期間的な視野から見て、是 であるのか、というのを「議論」することが大事である。その議論の上で、是、とするのであれば、それはそれでそのコミュニティーの判断なので、全く問題ない。

 

でも、上の * で挙げたようなことというのは、自分は若いとき、たとえば学生の時は全く思いつかなかった。いろいろな人の意見を聞いて、なるほど、と思って今に至る。最初から分かっていたわけでは全くない。ただ、答え合わせをさせてもらっていた。自分なりの。

 

-----

狭い視野での、局所的な是が進むことで、全体がゆがむ。そのために「大所高所から」見る視点が必要なわけだけれど、是 ということの力は強い。答え合わせの機会を吹き飛ばすだけの力がそこにある。

 

こういうところで、いわゆる「科学的」な教育における「前提の確認」ということがとても重要になってくる、、、。「あなたの議論は、閉鎖系における議論ですよね?開放形では成り立ちませんが、あなたの系は閉鎖系と考えて良いのですか?その根拠は?」というような質疑応答は、培養実験の窒素収支の話に収まるものでは全くない。もっと深遠で、かつ単純で、言い方嫌いだけれど「応用の利く」ものだ。

 

「あなたの是は、どの範囲での、どの前提での是ですか?」

 

この質問は、かなりきつい。極言すると「人生やり直したら?」にちかい力がある。上記の「あなたの系は、あなたの前提にあっている系ですか?」と同じく「間違っていたら全部やり直しですよ」、そして「全否定」につながるから。

 

だからこそ、自分で自分に問い続けないといけない。外から問われたらしんどすぎて気を失ってしまうから。自分で常に答え合わせの機会を模索しなければならない。傷を深く負う前に、調整して修正して改善すべきだから。

 

ただし、かなり多くの場合、この答え合わせを自分ですることなく、そして外からその機会を与えられても、あまりにもしんどいために、ほぼ無意識に避けてしまう。「だって是だもん」っていい放つことになる(だって、って、なによ、、、、)。

 

そして回りは諦める。局所最適とつぶやきながら・・・・・。

 

----

前提が違うというところに立ち戻ることは、その人の論理を否定するのではなく、単に前提が違うだけだった、ということで、逃げ道を与えるし、なにせ、否定する印象を和らげ、異なる前提を認めて、あたらしい案を作ろう、という方向に意識を持って行ける大きな長所がある。人を憎む必要もさげすむ必要もない。ただ前提が違っていただけ、前提の認識が違っていただけ、そこにも多様性があるだけ。違うだけ。間違っているわけじゃない。だからこそ、その違いを捉えた上で、どういう案がより全体として良いのか考えよう、ということ。

 

この冷静かつ優しい議論のためには、論理の誤りを指摘すること以上に、前提の確認が大事。

 

そのトレーニングは、大学での卒業研究などでいやなほどできるものだと思う。

 

なので大学にいるんだけどね。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/