Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

ないものが実はあるのだと考えること

勉強をなぜするの、といえば、いろいろなこたえがあるけれども、もしかすると、一つのわかりやすい言葉としては「ないものが、実は見えていないだけで、感じられていないだけで、本当はあるのかもしれない、と考えることができるようになるため」ではないかと思ったのです。

 

 

自分の周りには実は様々な自由がありますが、その多くに自分は気づきません。その自由について、感じること、考えることができません。でも、様々な書籍が、様々な歴史が、様々な人の人生が、様々な考えが世界中にはあふれています。人間は短い人生を克服する大事な術として、記録を残して伝えることを他の生物と比較して大変強力に行うことができるようになってきました。それらの記録を、情報を、自分の中に取り入れるためには、どうしても様々な勉強が必要です。

 

 

とかね。

 

 

自分が自由になるためですよ、というのはやっぱりちょっと難しい。ないものは想像することは難しいよね、ないんだから。でも、あるかもよ?って思えるとどうかな。たとえば友達があなたのことを大切に思っているということ、友情といわれるような思いを持っていること、それが、見えないけれど、感じられないけれど、もしかしてそれがあるとおもって、もう一度周りを見てみたら、どうなのかな?とか。

 

 

言葉を真摯に紡いでいくと、言葉は研ぎ澄まされ、時として感情はだんだんとその背後に隠されて見えなくなってゆく。ただ、じゃあ、うわべだけの言葉をなぞるのではなく、その背後に、他者への温かい眼差しがあるとしたら、この言葉はどう響く?見えてくるものは違ってこないですか?そして、最も大事なことは、言葉は、そこに隠されて見えなかった思いは、暖かな眼差しは、いつでもそこにあったと言うことなのです。我々の受け取り方、立ち位置の問題なのですよ。言葉は常に待ってくれていたのではありませんか?

 

 

ないものを考えるということ。あほみたいな陰謀論の話ですら、一部は大事な要素を含んでいると思います。それくらい難しい。多くの場合間違える。でも、100回まちがってもいいから、1つ、どうしても間違ってはいけないものに対して、見逃してはいけない、見えてこない大事なものがあるとおもって、あると信じてもう一度周りを見てみることは、悪くないんじゃないですかね?

 

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/