Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

A Love Affair the music of Ivan Lins

電子的に保管している楽曲っておそらく1/50くらいもない、、、いつの日かすべてリッピング(死語だ)するのだと思っていたけれど、もうすることもないかも、、すべて仮想空間でしかも周波数をもはや気にせず保管したらいいじゃないかとかとかおもいつつ、、、

 

 

A Love Affair the music of Ivan Lins をふと聴いている。

http://npg-kid.blogspot.com/2012/06/a-love-affair-music-of-ivan-lins-va.html

 

 

これ、本当に全体として素晴らしい。全体の構成、1曲1曲、それぞれの楽曲のリズム隊、微に入り細に入り、なんというか統制がとれていて、軽やかで。こういう「まとまり」というものが存在するのか、とびっくりしたのを覚えている。こういう「解」もあるんだな、と。解じゃない、到達点なんだろうけれど。いや、どうかな。解だったらすごいけど、プロデューサーって。

 

 

っていろいろ今更ながらに読んでみたら、そうなのね、やっぱり、プロデューサーの手腕がかなりすごいってことなんだね。そうなんだ。。。

 

 

こういうの(ってあまりにもぼやかしているけれども)、研究でも全く同じだと思う。いや、漕艇競技も、航海や海外調査も、組織運営も、そしてとにかく「何かを創り出す」ということであれば。複数の人々が集まって何かを創り出す、その時間の流し方、、、手法というほど統一的な見解はないのかもしれないけれど、そこには何か必ずある。皆に通じるものがある。あるはず。それを探して、一番統一がとれているとおもったデザインの本を片っ端から読んだのだった。よね?

 

 

Pat Metheny Groupのコンサートを聴きに行ったときの、「あの音が現実にそこにある」というあの当たり前のことの衝撃は、いろいろなところで、同じように、でも姿を変えて、つねにある。論文を書くとよくわかる。頭の中にぼんやりとしかないアイディア、とさえいえないような思いつきの断片が、その背景、仮説、それを肯定・否定するデータ、その解釈、そしてその限界をまとって、言葉として(図表として?そして究極的には数式なのだろうけれども)最終的には表現される。まさに「死んでしっかりとした存在になる」という小林秀雄の言葉(実際には小林秀雄川端康成にいったのではなかったかしら)を常に思い出す、あの、「論文になったら偉そうになっちゃった」「自分の言葉が自分から遊離してしっかりとした存在として見つめられてしまう」という感覚。あれが味わえるだけでも大学で卒業研究をやる価値があると思う。

 

 

あった

『生きている人間などというものはどうにも仕方のない代物で、鑑賞にも観察にも堪えない、其処に行くと死んでしまった人間というものは大したもので、まさに人間の形をしている、してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな』

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2011/10/post-f9b5.html より)

 

 

大きな論文に至るまでに小さな論文をどれだけ重ねなければならないか、その小さな論文にすらどれだけの数の試行錯誤を重ねなければならないか、その道程を知ってしまっているだけに、どうしても動きが鈍くなる。すぐさまご褒美はもらえない。もらえたとしても10年後くらい。それまで生き延びられるのか?正直そんなことを思う。でも、それこそ、そんなところに落ち込んではいけない。去年の雪ぞいずこに在りや。

 

 

ということの断片を部屋に入ってきた長女にしてみていたわけでした。わかるわけないけどさ。でも、プロデューサーというのを日本語にしなきゃなという気づきがもらえた。

 

 

そう、小林秀雄の「当麻」の一節にある「これほど単純な形を取り得るとは」、そこなんだよな。その形、その形を取る、そこなんだ。ほんま。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/