Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

好みを言語化すること(こんなことばかり言っているけれど)

古い小さな車で来た。かみさんの古いサザンのCDが入っていて聴きながら雨の中来た。小中高とべったりこの楽曲と過ごしてきたので(地元だし!)、ぐっと来る瞬間が何度もある。


うざったいことなのかもしれないけれど、けれど、なぜこの曲が好きなのか、ということにタイして、むかしだったら「いやぁ、いいよねぇ」ですましてしまっていたところに、なぜこのコードが、なぜこのイントロの始まり方が、なぜこのギターの入り方がいいのか、と考えるようになって、で、それぞれについて、なぜそれが良いのか、というのを自分の中でもごもごと言葉にできるようになっていた。


びっくりした。


その根底にあるのは、抽象化であり、一般と特殊、抽象と具体という両極端なものを置いた、スペクトルにあるのだとも気づいた。いや、難しそうにわざと書くけど、単純に、いろいろなものを聴いて見て感じてきて、自分の中の感情の振れ幅や、自分が見てきたものの端から端までと言うのを俯瞰した上で、じゃあ、今の感情が、今のコードのずれ方が、どういう立ち位置にあるのか、というのをいえるようになっていた、ということみたいだ。


そんなものは、「自分の意見」ではない、「自分の好み」ではない、とずっと思ってきた。それこそ高校の頃から反発してきた。星の数ほどある情報を集めて、で、それでどうなのよ、と。


けれども、限定合理性を考えたって、自由意志を考えたって、何をどう考えたって、自分が自分であるなんてのはある程度幻想で、その幻想の中なんとか具体にたどり着かなければならない(あるいみとても余裕のある)この21世紀の人生を生きるという営みの中では、こういうやり方だって良いんじゃないかと。自発的な、純粋な思いがあればそこから初めても良いし(でも、そこにだって、周りの影響は少なからずあるから、純粋な思いなんて幻想だと言い切っても良いんだけれど)、外からの刺激に反応している自分を見つめながら自分の輪郭を作っていっても(輪郭がそういうものだと認識しても)良いのじゃないかと。


どんなものだって自分とは関係ないし、自分と関係してしまっている、という当たり前のことがどれだけ思考を自由にするか、ということなんだと。そのうえで、進めばいい。気にするな。自分の意見なんて無いけれどある。そういうことだ。ぷふい。


ずっとずっと考えている、人は知りたいと本当に思うのか、という大きな疑問にちょっと近づけた気がする、怪しい朝でありました。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/