Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

開始点と到達点

今日話していたいろいろなことから。


ある事象について、その事象について、自分(達)の開始点・出発点、そして自分(達)の終着点・到達点を明確にすること、その助けになるものが教養なんだと思う。


出発点の中で大事なことは、自分(達)は、完璧にはなり得ない、ということ。何か書類を作ろうと思ったら、全ての人に対して「分かって」もらえる書類など作れるはずはない、という認識が大事。自分(達)には足りていない部分がある。必ずある、ではなく、当然、ある。あるというのがあほらしいくらいある、という前提をもてるかどうか。


到達点の中で大事なことは、完璧にはなり得ないという大前提の中で、では、何を目指すのか、何を目指すべきなのか、という議論ができること。そんなこと書くまでもなく分かりますよ、という人ももちろんいれば、電子レンジで猫は温めないようにしないといけませんね、と書かれなければ分からない人もいるだろう。その広い「多様性」にたいして、全てを対応することはもちろん不可能。だけれど、では、たとえば1つ公的な書類を出すならば、どこを対象とするのか、どこの部分が対応できないのか、をしっかりと見定めること。


そして、人として「真摯である」ということの表現は、自分の能力の限界に真摯であること(開始点)、自分のおかれた現状に対して真摯であること(到達点)、そして対応できない人に対して、別途誠心誠意対応する覚悟を持ち、実際に行動すること、この3つに顕れるはず。


「正しいこと」をすることが目的ではない。それは手段であり、中間点でしかない。たとえば、書類の意味が届かない人がいるでしょうから、その人に配慮した文面を作成しなければ、というようなことは、確かにそうだ。正しい。だけれど、それは向かう方向において正しくはない。その正しさを言及することで自分の到達点としてはいけない。その方向ではないのです、分かりませんか?分かってもらえませんか???という、祈りにも似た思いは、「目先の正しさを追求」し始めてしまった人にはもう届かない。


出発点と到達点、それを丁寧に考え、常に意識し、常に自分の方向性を確認、修正し続けること。それが大事なのだが、それこそ、研究において学ぶことのできる事柄なのではないかしら、と。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/