この辺,極めて微妙だけれど,,,,学生さんの時間を取ることに自分ではだいぶ過敏になっているつもりでここまできた。いや,実際にはすさまじい勢いで鈍感になっている(+鈍感になるのを許している)のだけれど。
一方で,そうはいっても,たとえば自分の研究を発表する機会とかは,研究の集まりとかはぜひとも参加してほしいし,そう周知するのだが。しかし,そういうものに参加するしないというのは,人それぞれで。つまり,それぞれの人の価値観の問題で。
しかし,一方で,そう「放任」していて良いのかという焦りというか怖さもこの数年ひしひしと感じている。彼らが思うbestやbetterは,上の人間から見たら,遙かに低いレベルだったりする。それは彼らの責任ではなく,むしろ僕らの責任。もっと高いレベルがあって,そこに自分が到達できるのだ,ということを意識させ,自覚させていない責任ではないかと。そう。責任。責任というようにものをとらえ直すととたんに何とか動かさねばと言う気になる(というのもなんだかな)。
これまで「知らないことは仕方ない」というのと同じ考え方から「機会を与えて,それをどう租借するかは本人次第」という「大人」な対応をしてきたように思うけれど,それだとまずい。今の学生さんが「大人」ではない,大人か?という問題ではなく,上っている階段が違うのだと言うことを認識して,その階段にあわせた,その段差の高さに合わせたやり方が必要なのじゃないか?それが「上」にあるものの責任じゃないか?
一方で「命令」することの怖さも多々あるわけだけれども。しかし,この辺の温度差が実はすさまじいのかもしれないとも思ったりする。
たぶん,たぶんだけれど。