Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

求められる文章の書き方

この数年の経験は大きいんだろう。ちょっと見えてきた。


文章を書かせる場合,たとえばレポートでも,公募書類でもいい。みる方にはある程度の「正解」としての鋳型がある。その鋳型に完全にはまるようなものを書いてほしい。たとえば,大学での教育をどう考えどうやってゆくのか,新しい環境でどのようにやってゆくのか,これまでの研究の新規性は何か,など。


ここで「完全にはまる」というのが大事。過不足,とくに不足についてはほぼ0点と思った方がいい。完全にはまった人の中からさらに選んでゆくのだ。通常。Sのレポートとか,公募とかは,切り捨ての世界である。一目見てだめならもう二度と見ることはないと思った方がいいくらいだ。SかAか,この人かこちらの人か,というもっと難しい問題に限られた時間は費やされるのは当然のことだから。過剰に書いても,もしかするとじゃまかもしれない。完全という方向をもっと煮詰める方がいいと思う。それくらい,要求する書類への但し書きはこちらも練っているのだ。


繰り返す。要求する文章の但し書きに書いてあることすべてに対応する必要があるのだ。そこにすべてはあるし,それ以上も以下もない。レポート課題で,〜〜〜についてのべよ,とあれば,〜〜〜とはXXXである,のように明示的にしっかりと書くことが暗に要求されているのだ。


この,暗に要求されている,ということを分かるかが第一段階。それをかけるかが第二段階。これ,双方とも簡単ではない。日本語なのに。


たとえば,自分の研究の新規性を書いてもらわなければならないとこちらが困る際にも,もちろん,「自分の研究の新規性は〜〜で始まる文を入れて書きなさい」なんてあほな文面はこちらは作れない。しかし,新規性などについて述べよ,と書いてあったら,必ず,必ず書くのだ。それを求めていますという大きなヒントがあるのに,それに対応しないのはいけない。自分が書きたいことを書くのが仕事の書類ではない。相手が要求することにどこまで対応できるのかを紙の上で表現するのが仕事の書類だ。新規性など,とかかれたら,その「など」については自分の裁量である程度考えてよいが,新規性については必ず書く。だって,書けといわれているのだから。


そして,これがもっと難しいことだが,自分で書いているとおもっても,相手には伝わらないという当たり前のことをどこまで考えられるか。新規性について書いてるよ,と自分では思うだろうが,紙の上の言葉として,全くの他人に十分伝わる(100%は無理だとまず考えることからスタートすべき)ものになっているかどうかは,別問題だ。わかりやすくという言葉が難しければ,くどく,あからさまに,分かっています,私はそれについて書いています,と,くどいように表明することが大事なのだ。たとえば,「私の研究の新規性は」という頭で始まるような文がかならず書類に入らなければならない。私の研究の中で,XXXというところが評価されている,というような文は,たしかに,読み方によっては新規性を唄っている,とも思えるけれど,そんなに書き手に寄り添ってこちらはみない。100枚以上の書類を限られた時間でみるのだ,みられるのだ,という想像力がどこまで働くか,という能力が,ここで透けて見えるのである。


ここまで書いて,次の研究申請,つらいだろうなとしみじみ。分かれば楽になるわけではない。もっともっと苦しいのだ。詰めるべきことは山ほどあるから。しかし,そこを超えないと,相手には伝わらない。うむ。。。。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/