もう今日は頑張った、、やすんでもいいかな、、とおもったら、まだ、たとえば共著論文へのコメントがあるじゃないか、、、2つ。1つなんとかしないと、、、と思っていたら査読しなきゃいけないのもきた。
まだまだ、ってことだな。ふぅ。がんばるぞー。
もう今日は頑張った、、やすんでもいいかな、、とおもったら、まだ、たとえば共著論文へのコメントがあるじゃないか、、、2つ。1つなんとかしないと、、、と思っていたら査読しなきゃいけないのもきた。
まだまだ、ってことだな。ふぅ。がんばるぞー。
この1ヶ月間、とんでもない状況で、これはあと2週間続く。審査したりされたり、怒ったり怒られたり、たしなめられたりたしなめたり。
なにがだめって余裕のなさだ。
なにもかも余裕がないと、悪い方向にしか進まない。どれだけ小手先で対応したって、根本的なところの余裕のなさは常に事を残念な方向に引っ張り続ける。耐えて耐えて耐えられなくなって落ちちゃう。地平から上へというベクトルに全くならない。マイナスからゼロへ、ばかり。
初心に戻って、では、足りないんだ。初心を持っていた頃とは状況が、責任が、環境が違っているんだ。初心よりもっと深く、元の場所を探して、そこからスタートしないといけない。そのために、初心よりもっと深く潜るだけの時間が必要。まずはそこから。
子どもたちが反抗期に本格的に入ってきて、ややこしくなってきましたぞ~
ちゃんと向き合い続けられるか、勝負ですな。毎日勝負を続けてきているわけだけれど、あらためて。
とボサノバ聴きながら。
どれだけ大学が訓練の場となってゆくとしても、単なる知識の提供源となってゆくとしても、学生さんは、最後の最後、卒業論文、修士論文として、まっさらな、何もないところから何かしら創ることが求められている。そこに望みは絶対にある。
farだろうがnearだろうが、transferable skillなんてやっぱりくそ食らえだ。そんな薄っぺらいことを僕らは学生さんと生み出したいのではない。
死んだらしっかりしてくる、という小林秀雄(が、川端康成の言葉として、だったとおもう)の言葉を思い出すが、この間の山下達郎のライブも、昔に戻ればPat Metheny GroupのThe Way Upのあの最初の音も、自分の初めての「論文」も、最初は何もなかった空間に、秩序が生まれてゆく。僕らだってなんとかして、言葉や図表が少しずつ埋まっていって、何かしらのものに創り上がる。創られてみると、さぞしっかりしたものか、とおもうような、不思議な感じがする。その創り出すときに、ほんのちょっとしたことの積み重ね、今まで幼稚園から、それこそ砂場で学んでいたことが、必ず小さな結晶を創っている。すべてはこのためと言ってもいい。白紙から何かを創り出すこと。ゼロから創り出すこと。それを、ある一定の基準で評価を受けながら少しずつ良いものにしてゆく活動なんて、そうそうない。卒論、修論、本当に素晴らしい活動になるはずのものだし、どれだけ重みを持たせた中身とできるかは、教員に多くの責任がある。頑張れば頑張っただけ答えが得られるはず。そう考えたら、本当に大学教員って有り難い。