すごいものを見た。読んだと書けない。見た。
だれかに読んでくれと言えない。自分が何%テキストの意味を、テキストが語ろうとしていることをくみ取れているか、甚だ心許ない。それなのに、大変なことが書かれているということがわかる。正直、ついて行けなくなるのではないかと不安になるほどの、テキストの重さだ。
自分にとっては小林秀雄の「当麻」以来の衝撃かもしれない。わかりにくいところは一つも無いのに、到底わからない。なのに心底感動しているし、焦りもしている。不安はないが、巨大な空間にぽっかりと浮かんでいる無力感さえ感じる。
何重にも隠されて、何回もねじられて、その上であたかも単純な姿で筋が通るように顕れている日常が、実はこんなに「ひねくれていた」のだと気づかさせてくれる。そこには「主体性」と「支配」という相反するものが、巧妙に隠されすぎてもはやそのさざめきを感じることすら困難な規範というベールの中で、ニヤニヤと共存している。単純な話として理解できそうなときこそ単純ではない、自分たちの身体に近いからこそ、そこには複雑かつ巧妙な規範が、自分たちによって練り込まれているのだ、ということに自分は気づけていなかった。いや、巧妙な規範の外套に包まれて、自分は気づいているのだ、というふりをさせてもらえていた。その矛盾、自分が気づくことすら適わなかった矛盾がつまびらかにされた。
規範というベールの中で、好都合的に混在されている「期待」と「信頼」についての、ボルノーの考えを援用した指摘が素晴らしい。その中での「信頼の賭け」という言葉は、大げさに聞こえてもかまわないが、今、悩み疲れている状態の自分には、危険なほどにまぶしく、同時にあまりにも生々しい言葉だ。リスクとかコストとかそういう軸ではなく、やるかやらないか、飛ぶか飛ばないかという賭けなのだ、そして今自分は賭けられないのだ、ということを毎日思っている自分にはこれ以上無いほどの衝撃的な言葉だ。
引用はできるだけ控えたいが、どうしても、どうしてもこの一文だけは手元に残しておきたい。この言葉を呪文のように唱えながら、目の前の簡単そうな顔をして手ぐすね引いている構造の問題をなんとか少しでもほぐし解きたいとおもう。
私たちが手放すべきなのは望ましさそのものではなく、それを透明な前提として無自覚に作用させ、結果として子どもの内面化を不可視のうちに進めてしまう構造のほうなのである。